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プロローグ 春めく鎌倉、出会いの時1
ふわり、桃色の欠片が、夕暮れ時の空を風に乗って飛んでいく。
踊るように空を舞ったそれは、私の頬を掠めて音もなく地面に落ちた。辺りを包む空気は、暖かな季節を歓迎するように柔らかく、生きとし生ける者たちを抱きしめているよう。
春は喜びの季節だ。誰もが心浮き立って、ついつい出かけたくなる。
自然と笑顔になる――新しい出会いを予感させる季節。
春は誰にでも平等に訪れる。
それは、ここ神奈川県三浦半島の付け根にある、鎌倉も例外ではない。
――古都鎌倉。治承四年に源頼朝が居を構えたことで、武家の町として整備されたこの地は、武家社会の発展に大きく貢献してきた。時代が移り変わり、政の中心ではなくなったあとも、明治期に上流社会の別荘地として脚光を浴び、観光地として現在に至っている。
鎌倉には、幕府時代より多くの寺社があった。それは今でも変わらず、人々の心の拠り所として存在している。寺社には多彩な植物が植えられて、一年中訪れる人の目を楽しませている。鎌倉というと、寺社めぐりもそうだが、多くの観光客の目当ては季節の花々だ。春真っ盛りのこの時期は、鎌倉の地は桜を求める客でごった返している。
そのせいか、春の鎌倉の空気はどこかそわそわと浮かれたような雰囲気に包まれていて、訪れた人間をそのキャパシティ以上に駆り立てる。それは、私も例外ではなかった。
特に「おひとりさま」だったからかもしれない。他人に気兼ねすることなく、大張り切りで鎌倉の地を歩き回った私は、人混みもなんのその、旺盛に観光してまわった。結果、へとへとに疲れ切ってしまい、体力回復を図るためにどこかの店で休憩することに決めた。
「疲れた……」
けれどこの時期、通りに面した店はどこも満杯で、窓から快適そうな店内を眺めることしかできなかった。すでに足は棒のよう。この旅のために新調した靴が擦れて、痛みのせいでもう長くは歩けそうにない。一縷の望みを託して、小町通りから外れ、脇道に足を踏み入れる。その先には、現地民が通う穴場の店がある……そう信じて。
「……古民家カフェ?」
そんな私が出会ったのは、とある一軒の店だった。
大きな門があり、そこには蘭の花が染め抜かれた暖簾が掛かっている。そうっと門の中に入ると、雰囲気のいい佇まい。古びた木造建築は二階建てで、広い縁側は、きっと日向ぼっこに最適だ。玄関先には満開の桜の木。はらはらと桜の花びらが舞う古民家は、女心が擽られる要素をいくつも兼ね備えていて、普通に考えれば客が殺到しそうなものなのだけれど……。
「うわ、ガラガラじゃない。しかも、何? これ……」
外から窓を覗く限りでは、店内に客の姿はない。更には、入り口には「あやかしも人間もどうぞ」なんてふざけた文句の看板が掛かっている。あやかしというと、アレだろうか。一般的におばけとか妖怪とかいうアレ。そんなものを歓迎しているだなんて、怪しいにもほどがある。
(もしかして、ものすごくまずいとか? それとも、とんでもなく高額だとか? 店員が偏屈な人だったりして)
嫌な妄想が脳内を駆け巡り、思わず後退る。
空いている店を探してはいたけれど、不思議なもので、空き過ぎているとそれも嫌なものだ。よし、別の店を探そう。店員に気付かれないように……と、そろそろと退散しようとした、その時だ。視界に何か動くものが入ってきた。
「なぁん」
それは、大変可愛らしい猫だった。ロシアンブルーだろうか、青灰色の毛を持つその子は、私を誘うように尻尾をゆらゆら揺らした。そして、器用に前脚で引き戸をからりと開けると、顔だけこちらに向けて、またひと声鳴いたのだ。
「……あれ?」
一瞬、猫の尻尾が何本かに分かれているように見えて、目を擦る。しかし、見間違いだったようだ。もう一度見た時には、普通の尻尾だった。
――あやかしもどうぞ。
看板の文句が脳裏に蘇ってきて、ひやりとする。
けれど、すぐに首を振ると苦笑を漏らした。
「そんなわけないじゃない。……ま、いいか」
きっと疲れているんだ。そう思った瞬間、たちまち疲労感に耐えられなくなって、帰るのをやめて足を店内に向けた。不味くても、高くてもいいじゃないか。もうすでに夕方に差し掛かろうとしているのだ。暗くなる前に落ち着ける場所を見つけておくべきだ。それに、何はともあれ座りたい。たとえ想像の通りだったとしても、それはそれで旅のいい思い出になるだろう……そう思ったのだ。
「なぁん」
――可愛い猫も、誘ってくれているみたいだしね。
春は喜びの季節。そして、新しい出会いの季節。
この決断は、どんな新しい風を吹き込んでくれるのだろう――。
私は、ほのかな期待と少々の不安を胸に抱きながら、猫の後に続いてその店に一歩足を踏み入れたのだった。
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