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我儘なお客と、特別なパンケーキ4
「――うっぷ」
「大丈夫?」
「ご、ご心配なさらず……」
あの後、三件ほど店を回って、ふたりであれこれアイディアを出し合った。さすがに満腹になってしまったけれど、トッピングだけは決めることができた。けれども、生地に関してはどうにも決まらない。
「正直、お腹キツイですけど……もう一軒行ってみませんか?」
「そうだね。どこにしようか」
「そういえば、七里ヶ浜に評判のレストランがあったはずです」
スマホで検索して、店のサイトを見せる。
「ちょっと移動しなくちゃいけませんが、ここはどうでしょう?」
すると、一瞬朔之介さんの顔が強張ったような気がした。
「……? どうかしましたか?」
「いや、なんでもないよ。そこにしよう。行こうか」
そう言うと、朔之介さんは駅に向って歩き出した。夕方になり、帰宅する観光客が多くなってきている。私は朔之介さんの反応を疑問に思いつつも、はぐれないようにと足を早めた。
七里ヶ浜は鎌倉駅から江ノ電で六駅ほどだ。私たちは、帰宅の途につく観光客の合間を抜けて、電車に乗り込んだ。そして、たまたま空いていた席に座る。間もなく、ドアが締まって電車が動き出した。徐々に薄暗くなってきた外を眺めながら、ぼうっと時間を過ごす。私たちを乗せて、江ノ電は住宅街のなかをのんびりと進んでいく。
「疲れたね」
ガタガタと揺れる電車に身を任せていると、ふと朔之介さんが話しかけてきたので、私は笑いながら答えた。
「あちこち歩いたせいで脚がパンパンです」
「確かにそうかも。それに考えながら食べていたせいか、酷く疲れたよ」
朔之介さんは肩を竦めると――どこか遠くを見て言った。
「でもさ、お腹いっぱい食べて、くたびれるほど歩いて――それって、なんて贅沢なことだろうね」
「――え?」
朔之介さんはちらりと私を横目で見ると、変なこと言っていると思ったろうと苦笑いを浮かべた。
「ほら、午前中に豆腐小僧の話を聞いただろ? 僕は――生前は酷く病弱でね。幼い頃からずっと、床に臥せってばかりいたんだ。だから、当時はどこにも出かけることができなかったし、そもそも食べたいものを口にすることすらできなかった。皮肉なものだけれど、鬼になって初めて、人並みにこういう経験をしている。だから、そう思ったんだよ」
そう語った彼の横顔は、酷く寂しそうだった。
――人間から鬼に「堕ちた」。それは、普通の人間がたどる道では決してない。いつも優しい笑顔を浮かべている朔之介さん。考えてみれば、他のあやかしに比べると誰よりも人間らしいのが彼だ。けれどもその額には、いつだって両の角が存在していて、彼が人ではない別物なのだと主張しているようだった。
彼の事情は、正直気になる。けれど――聞いてもいいのものなのだろうか。
「……なに?」
私の迷いに気がついたのだろう、朔之介さんが不思議そうに私を見ている。
正直やめようかとも思ったけれど、思い切って尋ねてみた。
――どうして、鬼になったのですか。
私の問いに、朔之介さんは少しだけ目を見張ると、次の瞬間には困ったように眉を下げた。
「あまり……楽しい話ではないけれどね。それでも、聞きたいかい?」
「朔之介さんが話してもいいと思うなら」
「そっか。そうだな、何から話そうか。――多分、僕は……人よりも未練が多かったんだ」
そう前置きして話してくれたのは、彼の孤独な人生だった。
朔之介さんが生まれたのは、明治中期の頃だ。東京のとある商家に生まれ、いわゆる愛人の子として誕生した。正妻の目から隠れるために、両親から離れ、ひとり別荘で暮らしていたらしい。
「心臓が悪くてね。少し動くと息切れを起こす始末だったから、何もできなかったし、させてもらえなかった。そんな僕の楽しみは――時折会いに来てくれる、両親の手土産だったのさ」
その手土産とは、主に本だったのだという。朔之介少年は物語の世界に没頭した。自由に動くことができない彼にとって、本が与えてくれる無限の広がりはなによりの楽しみだった。
「天井と窓ごしの風景だけが、僕のすべてだったからね。部屋の外には、こんな世界が広がっているのかと酷く驚いたものだよ。母も、僕が本を読むのを好ましく思っていたからね。当時は、朝から晩まで本を読み耽っていたものだ。でも、そんな生活は長くは続かなかった。僕は――24歳になった頃、肺結核を患ってしまったんだ」
彼が生まれた明治時代は、開国の影響で日本がめざましく変わっていった頃でもある。富国強兵をスローガンにして、工業の発展を推し進めていった結果――人口が急速に増加し、都市部に集中、衛生環境が極端に悪化した。アメリカでも、産業革命が起こった当時に結核が流行したらしい。同様の状況になった日本でも、その病が蔓延し始めたのだ。
「当時は、今と違って有効な治療法はなかったからね。だから――」
『次は七里ヶ浜、七里ヶ浜でございます。降り口は左側です』
その時、電車が目的地に到着した。
朔之介さんはぼんやりと扉が開くのを眺めると、ぽつりと呟くように言った。
「だから、両親はここ……七里ヶ浜の療養所に僕を入れたんだ」
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