変わらないもの、変われないもの2

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変わらないもの、変われないもの2

 ところ変わって、ここは北鎌倉駅からほど近い場所にある住宅街。  少し歩くと、あじさいで有名な明月院がある。円覚寺擁する六国見山がすぐ近くにあり、非常に緑の多い場所だ。このあたりは、歴史的風土保存地域や、歴史的風土特別保存地域に指定されていて、新築、増改築、土地形質の変更、木竹類の伐採などをするのに、許可を受ける必要がある。そのためか古い家が多く、比較的新しい建物が並ぶ鎌倉駅周辺に比べると、雰囲気が異なる。それもあって、明月通りに面して建っている家々は、一風変わった造りをしている。近くを流れる明月川を跨いで、小さな橋が門戸と通りを繋いでいるのだ。  私は、その中の一軒に休憩時間を利用してやってきていた。 「助かったわ。この日傘、お気に入りだったの」 「最近は、日差しの強い日もありますから……」 「うふふ、心配してくれたのね。嬉しいわ。よかったらお茶を飲んでいって頂戴」  そう言って、私に微笑みかけてくれたのは、カフェの常連客で菊江さんという。  ここは彼女の持ち家だそうで、今はひとりで住んでいるのだそうだ。お天気がいいからと庭に通された私は、縁側に座って休憩することにした。  菊江さんは代々鎌倉に住んでいて、あの店に若い頃から通っているらしい。そんな彼女も、既に八十代。髪はまるで雪のように白く、それを上品にお団子にして纏めている。目尻には笑い皺ができていて、なんとも優しそうな雰囲気を纏っている。さらりと和装を着こなしている姿は、日本女性の理想形のようで、実はちょっぴり憧れていたりする。  彼女は、お茶を用意するために母屋に入って行った。それを見送ってから、脚をぐんと伸ばした。すると、春の暖かな日差しが全身に降り注いできて、そのあまりの心地よさに全身の力が抜けた。 「いい天気だなあ……」  今日、私は菊江さんに忘れ物を届けに来た。常連である彼女は、カフェにほぼ毎日やってくる。だから、無理に届けなくても大丈夫だとはわかっていたのだけれど、あえてわざわざやってきた。正直なところ、休憩時間くらい朔之介さんと離れたかったのだ。 (あー……。この歳になって、こんなことをするはめになるとは)  好きな人を露骨に避ける……まるで、思春期の女の子のような自分の行動に苦笑しながら、菊江さんの家の庭を眺める。花壇では、春の花々が盛りを迎えていた。中央には大きな藤棚があって、その下には椅子とテーブルが設えてある。きっと、藤の花が満開の頃にあそこに座ると、心地いいに違いない。耳をすませば、さらさらと明月川の流れる音が聞こえる。庭を風が吹き抜けていくと、葉擦れの音が降り注ぐように聞こえてきて、これもまた心地がいい。家屋は通りから少し離れているからか、観光客の声が遠いのもいい。将来、終の棲家を構えるとすれば、こういう場所が理想かもしれない。 「お待たせ」  するとそこに、お茶の支度を終えた菊江さんがやってきた。  私はお茶を受け取って礼を言うと、もう一度、庭に視線を戻した。 「すごく素敵なところですね。なんというか、ゆっくりと時間が流れている感じがして」  菊江さんは私の隣に座ると、小さく笑った。 「ありがとう。私も気に入っているのよ」 「なんだか空気が水々しい気がします」 「そう? ふふ、いつもいるからよくわからないけれど、川が近いせいかしらね? そうそう、そこの明月川ね、六月頃にはホタルが飛ぶのよ」 「ホタル! 本当ですか? 私、見たことなくて……!」  思わぬ情報に、心が湧き立つ。夏の夜、暗闇の中でゆらゆら飛び回る幻光を想像して、うっとりする。ホタルなんて、なかなか都会では見られない。それが鎌倉で見られるだなんて知らなかった。しかも、どうやら野生のホタルのようだ。  興奮して、体を乗り出して詳細を聞き出そうとする。けれど、はたと気がついて止めた。これでは、まるで子どもみたいではないか。 「……どうしたの?」  すると、そんな私の様子に気がついた菊江さんが首を傾げた。  私は、苦笑いを浮かべて言った。 「いえ。年甲斐もなく、ホタルに浮かれてしまった自分が恥ずかしくて」  すると、目を何度かパチパチと瞬いていた菊江さんは、次の瞬間には小さく噴き出した。 「なに馬鹿みたいなこと言っているの。あなた、まだまだ若いじゃない」 「そんな、もうすぐ三十路ですし」 「まあ、私のまだ半分も生きてないわ! 若いわよ」  菊江さんはからからと楽しそうに笑うと、晴れ渡った空を眺めながら言った。 「三十路前後って悩ましいわよね。十代、二十代前半に比べると決して若くないのだけれど、完全な大人かって言われると、そうでもない気がするし。それに、色々と経験を積んでいる分、器用に生きられるようにはなるけれど、頭でっかちにもなりがち。今までみたいに、素直にいろんなことを楽しめなくなっているんじゃない?」 「……う、耳が痛いです」  思わず顔を引きつらせると、菊江さんは「でも、わかるわ」と続けた。 「あなたくらいの年頃って、たぶん大人にならなくちゃいけないリミットなのよ。転換期って奴ね。一番難しい年頃だと思うわ。十代は名実ともに子どもよね。二十代は社会的責任はともかくとして、気持ちだけは子どもでいられる。でも、三十代が近づいてくるとそうはいかない。その先を見据えて、どうあがいても大人にならなくちゃいけない。でも……本当は大人になりたくないような、そんな感じ」 「そうなんですよ……」  私は、菊江さんの言葉に大きく頷くと、苦笑いを浮かべて言った。 「白髪が出てきたり、昔と同じお手入れじゃ肌が荒れるようになったりして、確実に老化を感じ始めているんですけど、心のどこかでは昔と変わらないはずだって、諦められない気持ちもあるんですよね……」 「そうなのよね。特に筋肉痛ね。何日か遅れてやってくるでしょう? 痛くなってくる頃には、なんで痛めたのかすら忘れてる」 「脂が足りなくて、すぐ手足がカサカサになるし」 「冷えるとすぐ体がむくむし」  そこまで喋り終えると、私たちはお互いに顔を見合わせて、クスクスと笑いだした。 「ふふふ、おっかしい! 菊江さんもそうだったんですね」 「いつの時代も『あるある』は変わらないわね。でも、まだまだよ。四十路を越えると、また違う悩みが出てくるわ」 「うわあ……。勉強になります」  思わず口元を引きつらせると、菊江さんはパチリと片目を瞑って、茶目っ気たっぷりに笑った。 「なんでも訊いて頂戴。全部、経験済みなんだから」 「ふふ……頼りになります」 「でも、いいじゃない。そんなに悩まなくても。あなた素敵な彼氏がいるのだし、今を目一杯、愉しめばいいと思うのだけれど」 「へっ!?」  菊江さんは口元を手で隠すと、にんまりと笑って言った。 「朔之介さんの彼女なんでしょ?」 「違います!!」 「まあ、照れちゃって」 「違いますってば……」  私は、がっくりと項垂れた。どうも、うちの店の常連客の中では、私は朔之介さんの「大切な人」という扱いになっているらしい。そのことを言われるたびに否定しているのだが、みんなニヤニヤ笑うばかりで、何度も同じことを言ってくるのだ。  彼への恋心を封印しようと苦心しているところに、正直、これにはほとほと困っていた。青藍さんが、いままで他の女性を絶対に雇わなかったという事情もあり、ある日突然現れた私には、何か事情があるに違いないと勘ぐっているらしいのだけれど。正直、そんなの知ったことではない。私は菊江さんを恨めしげに見つめると、少し唇を尖らせて言った。 「そもそも、私と朔之介さんじゃ、ちっとも釣り合わないじゃないですか。いい加減しつこいですよ、まったくもう。どうしてそう思うんです?」  私の言葉に、菊江さんは僅かに目を見開くと、呆れたと苦笑いを浮かべた。 「もしかして気がついていなかったの? あのね――」  そう菊江さんが口を開いた、その時だ。 「なぁん」  猫の鳴き声が聞こえてきたかと思うと、何かが菊江さんにすり寄っていった。見ると、それは黒猫だった。ぴんとしっぽを立てて、甘えた声を出して、彼女の手にしきりに額を擦り付けている。菊江さんはそれに気がつくと、柔らかな微笑みを浮かべて黒猫を抱き上げた。 「タマ、おかえり。あらあら、甘えん坊さんね」 「無視すんなよ、遊ぼうって~」  そこにやってきたのは、私のボディーガードをしてくれている三毛の猫又、サブローだ。彼は、菊江さんの腕に抱かれた黒猫の鼻先に、顔をしきりと近づけている。けれども、どうやら振られてしまったらしい。黒猫はそっぽを向いてしまって、がっくりと項垂れてしまった。  黒猫のタマは、菊江さんの飼い猫なのだそうだ。後ろ脚が悪いらしく、少しぎこちなく歩く姿が特徴的な子で、サブローとは昔なじみ。一見、とても可愛らしく見えるのだが、サブロー曰く、昔はかなりやんちゃ(・・・・)だったらしい。 「前はさぁ、鎌倉の端まではるばる鼠を捕りに行ったじゃないか。ボス猫に挑んで勝ったこともあったっけ。なのに、最近ちっとも遊んでくれない。ちぇっ。タマも歳を取ったもんだね」  サブローはやれやれと丸くなると、ふわ、と大あくびをした。  タマはサブローと違って普通の猫だ。しかし、齢十七歳にもなる高齢猫だった。黒々とした体のあちこちから白い毛が覗いていて、年齢を感じさせる。けれども、気持ちは若いままらしい。タマはサブローに向かって牙をむき出しにすると、威嚇音を発した。 「うっ……。なんだよ、怒るなよ。年寄り扱いしたのは謝るよ……」  サブローは、猫又のくせにタマよりも立場が弱いらしい。ビクリと体を竦めると、私の後ろに逃げ込んでしまった。そんな二匹を面白く思っていると、ふと菊江さんが呟いた。 「この子も、早く猫又になればいいのにねぇ……。そうしたら、もっとたくさん走り回れるし、死ななくてすむのに」  菊江さんは、ぽつりと呟くと、タマの背中を愛おしそうに撫でてやっていた。  根っからの鎌倉っ子である菊江さんからすると、生き物があやかしになることは、そう不思議なことではないらしい。 「早く化けておいで」  彼女は、さも当たり前のようにそう言うと、タマの背中をもう一度ゆっくりと撫でた。  さわ、と水気を含んだ風が頬を撫でていく。木漏れ日が差し込む古びた家の縁側で、猫を穏やかに撫でる菊江さんの様子は、自然と風景に馴染んでいる。おそらく、これが彼女たちの日常なのだろう。  老猫と老女が紡ぐ、なんとも穏やかなひととき。  私は、彼女たちが作り出す世界がなんとなく眩しく思えて、うっすらと目を細めて、二人を眺めていた。
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