変わらないもの、変われないもの7

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変わらないもの、変われないもの7

 それから二時間ほど話こんだ私たちは、流石に遅くなってしまったので、菊江さんの家をおいとますることになった。玄関を出て空を見上げると、いつの間にか空一面を覆っていた雲は消えていて、数多の星々が競うように輝いている。どうやら、あの強い風が雲を蹴散らしてしまったらしい。この辺りは、夜ともなるとかなり暗くなるから、都内に比べると格段に見える星の数が多い。ちかちかと瞬く星の光は、私の記憶にあるそれよりも美しく思えて、沈んでいる今の心にはやけに沁みる。  青藍さんは、もうちょっと飲むと言って先に行ってしまった。すると、菊江さんが見送りに玄関まで出てきてくれた。 「気を付けて帰るのよ」 「はい。今日はごちそうさまでした」 「ふふ、お粗末様。また食べにきてね」  彼女はそう言うと、懐を探った。紬の着物の中から現れたのは、あの日見た漆塗りの櫛だ。玄関から漏れる灯りに漆が艶めいて、藤の花にまぶされた金粉がキラリと光っている。相変わらず綺麗だな、なんて思っていると、菊江さんはおもむろにそれを私の手に握らせた。 「これ、あげるわ」 「え」  突然のことに驚いていると、菊江さんはじっと私の目を覗き込んで言った。 「前に言ったでしょう。『終活』しているの、私」 「いやいやいや! これお高いでしょう? 受け取れません!」  返そうとしたけれど、菊江さんはカサカサした両手で私の手を包み込むと、ぎゅっと力を込めた。 「駄目。これはあなたにあげるって決めたの。年寄りの言うことは聞くものよ。大丈夫、大丈夫。変なものじゃないわ、受け取って?」 「ですが……」 「この櫛はあなたにこそ相応しい。ね、いいでしょう?」  そして、菊江さんは私の耳元に顔を寄せて言った。 「実はこの櫛ね、初めて朔之介さんの珈琲を飲んだ日に身に着けていたものなの。これにはね、私の想いを籠めてあるの」 「想い?」 「そう。この櫛に籠めたのはね……私の初恋」 「えっ!?」  困惑していると、菊江さんはくすりと楽しげに笑った。そして教えてくれたのだ。彼女の初恋相手が朔之介さんだったこと。初めてカフェに行った時、酷く緊張したこと。 「朔之介さんって、今も昔も変わらない姿なのは知っているでしょう? あの儚げで、爽やかで、優しい笑みを常に湛えている彼は、若い子の間では憧れの的だった。私もそう。少女時代に一目惚れして……でも、想いを告げられずにそのまま。そんな彼が店で働くことになったって聞いて、当時、私はもう結婚していたけれど、勇気を出して行ってみたの」  その時に、気合を入れて着けたのがこの櫛なのだそうだ。  当時、一番のお気に入りの櫛。鏡を見ながらこれを着けた時は、ドキドキソワソワして堪らなかったらしい。 「既婚者が馬鹿みたいって思いもしたけれど、それ以上に、好きな人には一番素敵な姿を見て欲しかった。この櫛を着けるとね、普段よりも自信が持てる気がするの。彼の目に写っている私は、最高に素敵な私。ふふ、この櫛は特別なの」  目を煌めかせて、うっすら頬を染めて語るその姿は、恋する乙女そのものだ。 「私はあの店に、『変わらないもの』を求めて通っている。それは朔之介さんの珈琲の味。それと……初恋の相手の姿」  菊江さんは親指の腹で私の手の甲を撫でると、ふうと息を吐いた。 「恋のライバルに塩を送るのは、なんだか悔しいけれど」 「ら、ライバルって」 「だってそうでしょう? あなたも、朔之介さんに恋をしている」 「――っ!?」  顔が熱くなって、あまりのことに思わず手を引っ込める。菊江さんの手から、抵抗なく抜け出した手の中には、櫛を握ったままだ。あっと思って慌てて返そうとすると、やんわりと止められてしまった。 「私はもうすぐこの世を去る。正直言って、私の死が朔之介さんに与える衝撃を考えると、今から胸が重いわ。近しい人の死って、普通の人だって辛いのに、彼は――とても繊細なところがあるから。好きな人を悲しませなくちゃいけないなんて、人間の寿命って本当に罪深いわね」  そして菊江さんは瞼を伏せると、ぽつんと言った。 「初恋の人が変わらぬ姿でずっといる。その傍にいられるって、本当に幸せだった。だから、あの人には心安くいて欲しいの。あなたが、自分の気持ちに引け目を感じているのは、見ていてわかるわ。年齢的に難しい頃だものね。迷うのはとても理解できる。でも――」  ぎゅっと手を胸の辺りで握りしめた菊江さんは、まるで少女のような笑みを浮かべた。 「知っている? ずっとずっと――好きだった人を眺めているだけっていうのは、幸せだけれど、辛いものなのよ」 「菊江さん……」 「自分の気持ちに臆病になったら駄目よ。我慢なんて、体に悪いだけだわ。後悔のない人生を送りなさい。まあ、頭の片隅にでも置いておいて。年の功って言うでしょう? 年寄りの言葉をきくと、きっといいことがあるわ」  すると、菊江さんはゆっくりと頷いて言った。 「大丈夫。大丈夫よ」  私は手の中の櫛に視線を落とすと、顔を上げた。そして、それを無理やり菊江さんの手に戻して言った。 「想いの籠もった櫛なら、やっぱりご自分で持っていてください。今すぐに亡くなるわけでもなし、いつまた着けたくなるかわからないでしょう?」 「あら……」  私は驚きに目を瞬いている菊江さんに、にっこりと笑った。 「それよりも、お願いがあります。あのけんちん汁……誰かにレシピを教えたりしましたか?」 「え? いいえ、うちの子は男ばかりだし、奥さんもあまり興味はないみたいで……」 「そうですか! なら――私に教えてくださいませんか? 私にも、『変わらない』味を教えてください。正直、腕にはまったく自信がないんですけどね」  菊江さんの家族が代々残してきた味。それだって、彼女が亡くなれば失われてしまうもののひとつだ。それにこの味は、朔之介さんにとって価値のあるものでもある。 「朔之介さんが好きな味を、私にください。櫛よりも、こっちがいいです。駄目でしょうか?」  すると、菊江さんは目尻に皺を作って笑った。 「……わかった。厳しいわよ?」 「あの、その。ご迷惑をおかけすると思いますが、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくおねがいします!」 「ええ、任せておいて」  私は菊江さんと微笑み合うと、互いに頷きあった。  店に帰ってきた私は、門をくぐったところで足を止めた。月光に照らされた店を見上げると、窓辺に朔之介さんが立っているのが見えたからだ。私は、青藍さんから聞いた話を思い出して、思わず顔をしかめた。 『朔が抱えている『未練』。それは――』 「……誰にも愛されなかった、こと」  私は、青藍さんの言葉を反芻するように口の中で呟くと、ぎゅっと拳を握った。  愛人の子として生まれた彼は、体が弱かった。彼の存在は、父親にとって面倒なものだったらしい。正妻とも子を儲けており、跡継ぎとなる男児もいた。商家として成功を収めていた彼の家にとって、朔之介さんの存在は諍いの種としかならない。彼の体が弱いことをいいことに、『療養』という名の下に、所有している別荘のひとつに朔之介さんを置き、使用人に世話を任せっきりにした。 『あいつらにも、一応罪悪感はあったみたいね。朔の両親は、気まぐれに別荘を訪れては、朔が唯一好んでいた本を与えるくらいはしてあげたみたい。けれど、それだけ。一緒に食事をとったことすらなかったようね。せめて、朔の世話をしていた使用人がいい人だったならよかったんだけれど、どうも正妻の息がかかった人だったみたいで』  幼い朔之介さんは、誰からも優しく接してもらえずに、寝室に籠もりきりでずっと本を読んでいたのだそうだ。 『母親がしっかり子どもを守っていれば、こうはなからなかったんでしょうけれど、随分と気が弱い人みたいだった。とんでもない美人で、父親は常に手元に置きたがった。それに逆らえなかったのね。父親は母親には愛情を注いだものの、息子はどうでもよかった。……最悪ね』  そのことを話している時の青藍さんは、酷く悲しそうな顔をしていた。  どうしてそこまで朔之介さんの事情に詳しいのかと尋ねると、どうも彼を拾った後、亡くなった事情を含め、色々と調べたことがあったらしい。 『鬼になったばかりの朔は、憔悴しきっていて見ていられなかったの。だから、少しでもあの子を救う助けになればって思ったのよ。……でも、調べれば調べるほど、吐き気がしたわ。最期……結核になってしまった朔を、奴らは当時できたばかりのサナトリウムに放り込んだの。あの頃、結核は不治の病。朔の世話をしていた使用人が、自分も感染したらたまったものじゃないって逃げ出してしまって、誰も面倒をみる人がいなくなってしまったから。……あの子は、捨てられたの』  両親は見舞いにすらこなかったらしい。そして彼は、ひとり孤独の中で死んでいった。身近に親しい人がまったくいないサナトリウムで、彼が最期に見た光景は、一体どんなものだったのだろう。  朔之介さんは白い猫又を抱いたまま、月をじっと見つめている。その眼差しは酷く熱心で、彼は、そこにあるように見えて決して手が届かない月に、どんな思いを抱いているのだろうか。誰にも愛されず、最期は捨てられた朔之介さん。彼は異常なほど、「ひとりでいること」に敏感になってしまった。だから彼は、毎晩、一人にならざるを得ない就寝時のために、青藍さんの配下の猫を借りるのだ。  彼とタマにはいくつか共通項がある。  誰かに捨てられてしまったこと。一度は絶望したこと。そして、あやかしという存在。朔之介さんは鬼になり、タマは猫又になることを拒否したという違いはあるけれど。しかし、それよりももっと大きな違いが、あのふたりにはある。  ――タマと彼の違い。それは救いの手を差し伸べた人の有無だ。朔之介さんは生前、捨てられたまま一生を終えた。菊江さんのような人は現れなかった。彼に、欠片でも愛情を注いでくれる人はいなかったのだ。寂しかったろう。辛かったろう。魂が潰えるその瞬間、彼が感じた孤独はその存在を現世に留めるほどだったのだ。  月に照らされた彼の顔は、少し心配になるほど青白く見える。  私は彼に向かって手を伸ばすと――……拳を握った。 「朔之介さんも、唯一無二が欲しいんですね」  朔之介さんを唯一無二と定める青藍さんという存在はいるけれど、彼自身はそれに気がついてもいないし、誰かを自分の唯一無二に定めることができていないのだ。 「……まあ、私もですけど」  私は地面に視線を落とすと、長く、長く息を吐いて、店に足を向けたのだった。
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