変わらないもの、変われないもの10

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変わらないもの、変われないもの10

「驚いたな、これは」 「本当にアンタが作ったの? 嘘ついたら駄目よ? 焦げてないじゃない!」 「青藍さん……その言い方、さすがに酷くないですか!?」 「あははは! 『黒焦げの橘』だからなぁ」 「田中さん!? 変な二つ名をつけないでくださいよ!」  腰に手を当てて、盛大にため息をつく。すると、常連さんたちはたちまち大笑いした。  あの後、私は菊江さん直伝の「けんちん汁」を作った。カフェの冷蔵庫には、お客様に提供するものの他に、私と朔之介さんが普段食べる食材も入っている。ちょうど、先日煮物を作った残りの材料があったので、それを利用したのだ。  正直、うまくいくかはわからなかった。けれど、不思議なほど今日は調理が順調に進んで、納得のいく仕上がりとなった。けんちん汁を食べた常連さんたちは、「菊江さんの味だ」と揃って涙を滲ませ、あっという間に平らげてしまった。それを境に、彼らはぽつぽつと菊江さんとの思い出を語り始めた。故人と紡いできた様々な記憶を口にして、寂しさを吐き出し、想いを昇華していく。それはまさしく、遺されたものの正しいあり方だ。 「……アンタ、頑張ったわね」  青藍さんに優しく声をかけられて、また泣きそうになる。けれど、私は泣くわけにはいかなかった。まだ――この、「変わらない味」を食べてもらっていない人がいる。  縁側に面したガラス戸を開けると、湿気を含んだ少し温い風が頬を撫でて行った。いつもは夜になると騒ぎ出すあやかしたちも、今日ばかりは菊江さんたちの死を悼んでか姿を消している。月の発する青白い光が庭を静かに照らし出し、静かな夜を演出している。  そんな庭を、縁側に座った朔之介さんはぼうっと眺めていた。  私は彼の隣に座ると、横顔を見つめた。月の光以上に青白く、何の感情も宿していないように見えるその顔は儚げで、どこかへふっといなくなってしまいそうな、そんな危うさがあった。 「朔之介さん、お腹、空いてませんか」  私が声をかけると、彼はやたらゆっくりとした挙動でこちらを見た。彼の、普段とは違うあまりにも昏い瞳が目に飛び込んできて、動揺する。もしかしたら、これが――この瞳が、彼の本当の姿なのかもしれない。 「けんちん汁、作ったんですよ。食べませんか」  必死に笑みを作って、お椀を差し出す。けれども、朔之介さんは小さく首を横に振ると、視線を庭に戻してしまった。 「お腹は空いていないんだ。すまない」  そして、それだけを言って黙りこくってしまった。  朔之介さんの横顔をじっと見つめる。誰かに置いていかれることにトラウマを抱えている彼にとって、このことは酷く辛いことなのだろう。本当ならば、放っておいたほうがいいのかもしれない。けれど――今日ばかりは、そうはいかない。菊江さんは、彼に心安くあって欲しいと願っていた。一世紀、変われなかった人なのだ。放っておいたらきっと、ずっと引きずるに違いない。そんなの――絶対にいけない! 「駄目です」 「え」  彼の腕を、力いっぱい握る。じとりと朔之介さんを睨みつけて、やや強引にその手にお椀を押し付けた。 「菊江さん、しんみりした空気嫌いだって言ってました。駄目ですよ、そんな顔してちゃ」 「え、ええと」  私は目つきを柔らげると、彼の反対側の手に箸も握らせた。 「一口くらいは食べてください。このけんちん汁が作れるようになるまで、私と菊江さんがどれだけ苦労したと思っているんですか。料理下手な私が、奇跡的に美味しく仕上げることができたんですよ。食べて、そしていっぱい褒めてください!」  わざと戯けてみせる。朔之介さんは優しい性格もあって、押しに弱いところがある。彼は目を白黒させつつも、なんだかんだとお椀を受け取ってくれた。内心、ほっとしつつ言葉を重ねる。 「食べた後は、故人の思い出を語りましょう。それがきっと――遺された私たちがやるべきことだと思うから」  けれど、朔之介さんは困惑気味にお椀を見つめているだけで、中々口をつけようとはしない。一瞬、途方に暮れかけたけれど、この時、脳裏に浮かんでいたのは、菊江さんの優しい笑顔だ。 『大丈夫、大丈夫』  彼女はそう言って、私の背中を押してくれているようだった。しんみりは駄目だ。気持ちが滅入るだけだもの。できるかぎり明るく行こうと決意して、私は彼の手の中のお椀を覗き込むと、具材をひとつひとつ指さして行った。 「見てください、これ。人参、本当はお花になる予定だったんです。でも、なんかこう……得体のしれないものになっちゃいました。そうですね、物体Xとでも名付けましょうか」 「ぶったい……?」 「そうです。大根だって、恐ろしいほど分厚く皮を剥いちゃいました。再利用でもしないと、農家さんに罪悪感を抱く程度には、存在感がある仕上がりになってます。あ、後でお漬物にしてくれませんか? もったいないから」 「……ぶっ」  すると、その話を聞いた朔之介さんが小さく噴き出した。虚ろだった彼の表情に戻ってきた色に、私は気を良くして話を続ける。 「里芋の皮剥きなんて、指を落とすか落とさないかの瀬戸際だったんですよ。見てください、この指! まるで歴戦の戦士みたいでしょう」  彼の眼の前で、ぱっと両手を開く。そして、絆創膏まみれのそれを見せつけた。すると、朔之介さんはパチパチと目を瞬くと、勢いよく顔を伏せると肩を震わせ始めた。私は、ふんすと鼻息も荒く「頑張りました!」と答えると――へへへ、と気が抜けた笑みを浮かべた。 「でも、味はよくできたんです。菊江さんの教えた通りに。本当――こんな料理ベタに教えるの、きっと大変だったと思うんですよ。でもね、その時のこと思い出すと、彼女、いつも笑ってたんです。失敗しても、焦がしても、調味料を入れすぎたって、大丈夫、大丈夫っていっぱい励ましてくれて。少しでも上手にできたら褒めてくれた」  ……ああ、菊江さんに会いたいなあ。  話しながらしみじみ思って、でも会えないことは理解しているから、途端に寂しさがこみ上げてくる。あの、温かな笑みを向けてくれる菊江さんは、顔をくしゃくしゃにして笑ってくれる菊江さんは、仕方ないわねと困ったように笑う菊江さんは――もうどこにもいないのだ。それがとても切なくて、苦しくて――恋しくて。  あの優しい微笑みに、思い出の中以外には、もう二度と会えないことを実感してしまった。 「私、菊江さんが本当に大好きでした。あんなに温かい人と出会えて、本当によかった。でも、でも――もっと、もっと一緒にいたかったなあ。もっとあの笑顔を見たかったなあ。もっと色々教えて欲しかったなあ。もっと早く出会えていればよかったのに」  それは、紛れもない私の本心が籠もった言葉。 「もっと、同じ時間を過ごしたかったなあ……」  その言葉と共に、一粒の涙が零れ落ちた。 「あ、あれ。しんみりした空気は駄目だって自分で言ったのに。ごめんなさい、待ってください。今、すぐに止めますから……」  流れ始めた涙は、次から次へと流れ落ち、私の頬を濡らしていく。明るく行こうと決めたのにと、慌てて涙を拭う。けれど、どうにも止まりそうにない。頭は菊江さんのことでいっぱいで、ふとした瞬間に彼女の優しい言葉が、楽しい記憶が蘇ってくるのだ。どうしようかと戸惑っていると、おもむろに朔之介さんが口を開いた。 「そうなんだよ」  彼はポケットから取り出したハンカチで私の涙を拭うと、しみじみと言った。 「菊江さんは、本当に優しい人なんだ」  そして、ポツポツと菊江さんとの思い出を語り始めた。 「昔から店に通ってくれて、普通よりも濃いめの珈琲が好きでね。風邪をひいた時なんて、山程果物を持ってきてくれて。そうそう、青藍と一緒に僕の恰好にダメ出しをするんだよ。高度経済成長期の頃、まだ和装だった僕に、着物は古臭い、もっと流行の服を着なくちゃって、山ほど服を持ってきて――。本当に世話になったんだ。寒くないか、暑くないかってことあるごとに、心配してくれて……」  朔之介さんは、くしゃりと顔を歪めると、かすれた声で言った。 「母に世話をしてもらった記憶はないけれど、多分、普通の母親がしてくれるようなことをしてくれたのが菊江さんだった。いっぱい、いっぱい……優しくしてくれたんだ……っ」  朔之介さんの体が震えている。俯いてしまった彼の顔から、透明な雫が溢れている。 「菊江さん。どうしてこんなに早く」 「……っ」  掠れ声の彼の言葉に、思わず息を飲む。菊江さんは、決して早世したとは言えない年齢だ。けれどそれは、あやかしである彼にとっては違うのだろう。永い時を生きるようになってしまった彼にとって、これからもずっと生きなければいけない彼にとって、菊江さんの死は早すぎる。  胸が締め付けられるように感じて、私はお椀を持つ彼の手に、自分のそれをそっと重ねた。彼は望んであやかしになったわけではない。けれども、こんな別れを何度も繰り返しているのなら、それはなんて残酷なことなんだろうか。  私に手を握られて、朔之介さんは一瞬ビクリと身を竦ませた。そして、前髪越しに弱々しい視線をこちらに向けてきた。私は、彼の薄茶色の瞳を覗き込みながら、ゆっくりと話しかけた。 「菊江さんに会いたいですか?」 「……え?」  私は驚いた顔をした朔之介さんに言った。 「このけんちん汁は、菊江さんのお祖母さん、お母さんから引き継いだ味なんです。そして、私に受け渡してくれた味。ここに籠もっているのは、菊江さんとの思い出、彼女の優しさ、気持ちなんです。これを食べたら、いつだって彼女は蘇るんですよ」  私は涙でぐちゃぐちゃになった顔に、心からの笑みを浮かべると、一言、一言、噛みしめるようにして言った。 「人は時に立ち止まる生き物です。だから、『変わらない』ものを好みます。そこに、思い出や記憶が宿っているのを知っているから、大切にするんです」  ――だから、食べてみませんか。  囁くように言って、手を離す。彼は青ざめた顔のまま、お椀を見つめている。お椀の汁に写り込んでいるのは――まんまるのお月さま。それに、今にも泣きそうな彼の顔。  朔之介さんは、恐る恐るそれに口を近づけると――ごくり、と飲み込んだ。 「……ああ」  そして、震える声で言ったのだ。 「美味い、菊江さんの味だ」  そして、朔之介さんはとても優しい笑みを浮かべた。その笑みは、どこか菊江さんのものに似ていて、私もまた泣きたくなってしまった。その時、温い風がまた頬を撫でていった。それはまるで、涙で濡れた私の頬を、誰かが優しく拭ってくれたようだった。
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