心に沁みる珈琲1

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心に沁みる珈琲1

 菊江さんの葬儀から、二週間経った。淡い色に彩られた季節が過ぎていき、濃い色合いの花々が町を彩り始めた。汗をかくほどに空気が熱を持つようになると、薄着の観光客が目につくようになって、洒落た日傘が競うようにあちこちで花開く。鎌倉に、暑い季節がやってきた。  あれから、朔之介さんは少し落ち込んでいたようだったけれど、徐々に普段通りに戻ってきているようだった。時折、仕事終わりに私や青藍さんと菊江さんの思い出話をしては、一緒に静かな時を過ごす。親に捨てられたせいで、心に深い傷を負っている彼は、自分なりに「大切な誰かがいなくなること」を処理しようと努力していた。ネガティブな感情を溜め込むのではなく、前向きにこれからのことを考える姿勢は今までの彼にはなかったもので、青藍さんや常連さんたちは喜んでいるようだった。もちろん、私もだ。彼をのんびり見守っていこうと、誰もがそう思っていた。……けれども、あることに関しては、そうゆっくりしてもいられなかった。 「ここの珈琲、イマイチだね」 「うん。美味しいってネットで見たんだけどな。残念……」  これは、店を出たすぐ鼻の先で、観光客がしていた会話だ。偶々、片付けに出ていた私と朔之介さんは、この会話をモロに聞いてしまって、固まってしまった。まずい! と、恐る恐る朔之介さんの様子を窺う。彼は、悲しげに瞼を伏せていたかと思うと、次の瞬間にはちょっぴり不自然な笑顔を浮かべて言った。 「……はは、参ったね」 「い、今のは気にしなくていいと思いますよ! 味覚なんて、個人差があるんですし」 「わかってる。ありがとう」  そう言って励ましたものの、その日の朔之介さんは、どこかとても寂しそうだった。  落ち着いてきたように見えた朔之介さんだけれど、なかなか珈琲の味までは戻らなかったのだ。それほど味にこだわりがない客であれば問題ないようだったが、舌の肥えた客までは誤魔化せなかった。ある日、ふと検索した口コミサイトで「味が落ちた」というレビューを見つけた時は、正直、頭を抱えた。これは放って置けない。 「――というわけで」  ある日のこと。朔之介さんが買い出しで不在の店内で、私は、青藍さんと常連さんたちに向かって言った。 「私、朔之介さんのお母さんのことを調べようと思っています」 「――はぁ?」  すると、彼らは困惑したように顔を見合わせた。青藍さんなんかは、明らかに不機嫌になって、眉を顰めている。 「聞いてもいいかしら。どうしてそうしたいと思ったの?」 「朔之介さん、ずいぶんと元気になってきたように見えますが、まだまだ本調子じゃないみたいです。珈琲の味が落ちたって、噂になってます」  すると常連客たちの間から、ああ……とため息ともつかない声が漏れた。毎日朔之介さんの珈琲を飲んでいる彼らも、そのことは身に沁みて感じているようだった。どこか濁ったようなその味は、彼らが長年愛してきた味とはまったく違うものだ。 「でも、それがどうして朔の母親を探すことになるわけ?」  青藍さんは、少し苛立った様子だ。 「彼の不調の原因は、皆さんご承知の通り、『大切だと思っていた相手』との別れです。ですが、そのそもそもの元凶として、『母親に捨てられた』ことがあります。それがトラウマとなって、彼を苛んでいる。でも、正直……私、納得してません」 「なにをよ」 「朔之介さんが『捨てられた』ことです」  私がそう言うと、みんな驚いたようにこちらを見た。私は彼らをゆっくりと見回すと、背筋をシャンと伸ばして言った。 「話を聞く限り、朔之介さんの母親は、家庭内であまり強い立場になかったのだと思いました。時代的に、女性が……しかも、愛人という立場にあった人が、男性に強くものを言うこと自体、かなり難しかったでしょうし、恐らく、彼の父親は病気になった息子を実際に切り捨てたのでしょう。悲しいことではありますが、それは間違っていないのだと思います。ですが、母親はどうでしょうか。朔之介さんの母親まで、父親と同じ様に考えていたのでしょうか」  すると、私の言葉に落ち武者の与一さんが反応した。 「待て待て。そんなこと、今更調べてどうする。何か出てきたとして、それが事実かどうかわからないではないか」 「そうです。今となってはわかりません。それに、母親がサナトリウムに見舞いにこなかったのは、紛れもない事実です。……しかしですよ、果たしてそれは、母親自身が望んだことなんでしょうか? 母親が、ほんの少しでも朔之介さんを気にかけていたという証拠が出てきたら、どうでしょう?」  朔之介さんは、私に母親のことを少しだけ語ってくれていた。一緒に七里ヶ浜に行った日、本ばかり読んでいたという彼の過去を聞いた時に、「母親も自分が読書するのを好んでくれていた」と言っていたのだ。それは少なくとも、母親と会話をした時に、「本をたくさん読みなさい」とか「本を読んでえらい」という風な会話が交わされたと考えていい。もしかしたら、それは上辺だけの言葉だったのかもしれない。けれど、そのことを語った時の朔之介さんの顔は、とても穏やかで、大切な思い出を語るような趣があった。 「母親だからといって、すべての人間が子どもを愛せるわけではないのは理解しているつもりです。でも、彼の話の端々に垣間見える『母親像』からは、そういう人だとは思えなかった」  子どもというものは、とても敏感なものだ。大人の本心を、ズバリと見抜くことがある。普段、親と一緒にいられない子どもであれば尚更だ。久しぶりに会った大切な相手の一挙一動を見逃すまいと注目するだろうし、つぶやきのひとつも聞き漏らすまいとするに違いない。だから、朔之介さんの母親が彼に贈った言葉は、本心からのものだったのではないかと、私は考えた。少なくとも、彼の母親は、自分の子どもに優しい言葉をかける程度の気遣いはしていたのではないか――?  たとえ、その気遣いの奥に潜む本心が、朔之介さん自身には届いていなかったとしても。  そこに温かな気持ちがあったのだと、私は信じたい。 「ほんの少しでもいいんです。病弱な子どものことを気にかけていたという事実が出てくれば、『愛されていなかった』ことにはならないと思っています。だから、調べてみようと思ったんです。菊江さんも、朔之介さんには心安くあって欲しいって言ってましたから」 「待って」  すると、私の言葉を青藍さんが遮った。彼は、いつも酔いで蕩けていることが多い瞳に、真剣な光を宿して私をじいと見つめている。それはまるで、私の心の奥底を覗き込もうとしているようだった。 「それになんの意味があるの。あの子の母親はもう亡くなっているのよ。たとえそうだったとして、結局あの子に待っているのは、大切な人はもういないという事実だけ。いたずらに、古傷を弄るようなことはしない方がいいんじゃないかしら。過去にもこういうことはあった。今までだって、あの子はあの子なりに乗り越えてきたのよ。別れなんて、あやかしにはつきものだわ。アタシたちにできるのは、今までと同じように見守ることだけよ」  それは、朔之介さんを長い間見守ってきた青藍さんらしい言葉だった。  確かに、私もそれは思わなくもなかった。余計なことをして、彼にダメージを与えてしまったら、元も子もない。それに、母親のことを調べたとしても、徒労に終わる可能性もあるのだ。なにせ、明治時代のことだ。本人は確実に亡くなっているし、今までの間に戦争も天災もあったのだ。何も残っていない可能性もある。 「それでも私は、行動を起こすべきだと思います。調べた結果を知らせるかどうかは、慎重に精査するべきだとは思いますが、一とゼロでは雲泥の差があると思うんです」  現状のままでも、朔之介さんはいつか立ち直るのだろう。彼の周りには優しい人が揃っているし、あえて彼を傷つけようとする人はいない。穏やかに「元に戻る」ことは、おそらく一番負担のない方法だ。けれども、「変わるべき」だと思う。今のままでは、別れがくるたびに傷つき続けるだけだ。  私は、青藍さんの瞳をまっすぐに見つめ返すと、どうか私の言葉が響きますようにと、心の中で願いながら言った。 「愛されたことが『ある』のと、まったく『ない』のとでは、心の持ちようが全然違います。その事実はきっと、彼の支えになってくれるはずです。お願いします。どうか、私に彼の母親を探させてください」 「……」  すると、青藍さんはひどく苦しげな表情になって言った。 「――どうして? あの子を少しだけ変えてくれたアンタに、感謝しているわ。でも、急激な変化は負担が大きいことくらいわかるでしょう?」  青藍さんの言いたいことは理解できる。変わることはとても勇気のいることだ。変わるかどうかを選ぶのはあくまで本人であって、他人が踏み込んでいい領域ではないこともわかっている。でも、あえて今、私は行動を起こしたい。そうしなければ、進まないことだってあると思うのだ。  私は、胸に手を当てると、ここ最近ずっと考えていたことを告げた。 「私、この店に来て良かったと心から思っているんです。辛い気持ちを抱えてやってきた鎌倉だけど、この店に集まる『仲間』たちに救われたと思っています。多分、ここに来なかったら――私、自分を捨てた彼氏のことで、まだウジウジしてたと思うんです。きっと、立ち止まったまま、前に進めていなかったはず」  ――ここに私を置いてくれた青藍さん。受け入れてくれた朔之介さん。歓迎してくれた常連客のみんな。私は彼らに感謝している。だからこそ、私にできることをしてあげたい。しなくては、と思うようになった(・・・・・・・・・)。 「昔は、他人にこんなお節介しようだなんて、思いませんでした。でも、ここのみんなは私の『仲間』です。大切な『仲間』が苦しんでいるのを、ただ眺めているだけの自分で居たくない。これは……私のエゴです。だから、納得できないなら反対してもらっても構いません」  青藍さんは、私の言葉には答えず、物憂げに瞳を伏せて、何事か考え込んでいるようだった。常連客たちは、どう反応すればいいのかわからないのか、困惑しきりの様子で顔を見合わせている。 (正直、協力してくれたらな、なんて思っていたけど、そんなに甘くないか)  こうなったら、ひとりで探すしかないだろう。どうすればいいかわからないけれど、やってみるしかない。私は覚悟を決めると、彼らに向かって「気にするな」と言おうとして――言えなかった。なぜならば、カフェの入り口が派手に開く音と同時に、やけにハイテンションな声の持ち主が割り込んできたからだ。 「ハハハハハ! 素晴らしい。なんて献身的で、情熱的で! そして、愛に溢れているんだろう!」 「うげ」 「その、僕を見た途端に顔を歪める反応も大変結構! しかし、実のところ、僕のハートはとても柔らかい素材でできていてね。君の反応でもろくも崩れそうだ。そう、まるでおぼろ豆腐のように――豆腐小僧だけに!」  あまりのやかましさに、両耳に指を突っ込む。すると、ソイツはまた大げさに「その反応! まったく酷いことこの上ない!」と、やけに嬉しそうに笑い始めた。   やってきたのは、豆腐小僧だった。銀縁眼鏡を掛けたイケメン姿で現れた彼は、長めの前髪をファサ、と気障な仕草で掻き上げると、手土産に持ってきたらしいざる豆腐を青藍さんに押し付けた。そして、馴れ馴れしく私の肩を抱いて言った。 「僕は詩織くんの計画に賛成だよ。いい加減、鬱々とした友人の顔は見飽きていたんだ」  そして、パチリと片目を瞑ると、青藍さんに向かってにこやかに言った。 「知っているかい。豆腐作りというのは非常に奥が深くてね。この店の珈琲のように、ちょっとした匙加減でずいぶんと味が変わってしまうのさ。湿度や温度、豆の具合にとても気を使う。なにせ、少しの『ズレ』で、厳選した大豆が台無しになってしまうんだからね。僕が言いたいのはね、最高の素材が『自動的に』最高のものになるわけじゃないということさ。――手の中で、可愛い可愛いと愛でるのは結構だが、甘やかしも加減が過ぎると腐敗の原因になるとは思わないかい。僕は豆腐小僧であって、納豆は管轄外なんだがね」  少し戯けたような言葉に鋭い棘を潜ませて、豆腐小僧は鋭い眼差しを青藍さんに注いでいる。 すると、青藍さんは盛大にため息をついた。彼は肩をすくめると「わかったわ」と苦笑いを浮かべた。 「アタシも協力する。情報を共有すれば、調べ物も捗るでしょ」 「本当ですか!」 「おやおや、期せずして力強い味方ができたようだね」 「アンタ、自分で炊きつけておいて、何言ってんのよ」   ぎゃあぎゃあ、いつも通りに騒ぎ始めたふたりを余所に、私は心底ホッとしていた。強い言葉を並べてみたものの、自分勝手なことを言っていることは理解していたのだ。彼を、ずっと気にかけていた人が手伝ってくれることは、なによりも心強い。  すると、青藍さんとやりあっていた豆腐小僧は、おもむろに私の耳元に顔を寄せて言った。 「このお礼は、デートでしてもらおうかな」 「絶対に嫌」  そういえば、ずっと肩を抱かれたままだったことに気がついて、豆腐小僧の腕の中から逃げ出す。そして、素早く青藍さんの後ろに逃げ込んだ私は、彼をジロリと睨みつけた。 「協力を取り付けてくれたことは感謝しているけど、そういうのはお断りします!」 「おやまあ、振られてしまった。この美しい僕が! 珍しいこともあるもんだ」 「小僧姿で来るなら考えてもいいけど」 「その姿はっ! 忘れてくれないかっ!!」  蹲って泣き出してしまった豆腐小僧は放置することに決めて、私は青藍さんの顔を見上げた。 「そういえば、一度、朔之介さんについて調べたことがあるんですよね? 知っていることがあれば、教えてくれると助かるんですが……」 「もちろんよ。アタシが知っていることは全部教えるから、役に立てて頂戴。あ、図書館やらネットでの調べ物は任せるわ。そういうのは苦手なのよ」 「わかりました。そちらは私が当たります。青藍さんは、どうするんです?」  すると、青藍さんはにぃと口元を釣り上げて、妖艶な笑みを浮かべた。彼がそういう表情をすると、元々整っている容姿も相まって、壮絶な色気を醸し出し始める。見かけは明らかに男性なのに、仕草は色っぽい女性そのもの。きっと、歌舞伎の女形の役者さんはこういう感じなのだろう。なんとも艶めいた妖しさを滲ませる彼に内心ドキドキしていると、青藍さんはパチリと片目を瞑って言った。 「猫にはね、猫の探し方ってもんがあるのよ」 「――え?」  青藍さんがそう言った瞬間、四方八方から視線を感じて、ぞわぞわと全身に鳥肌が立ったのがわかった。それは、どこか面白がっているような視線。そのなんとも言えない居心地の悪さに、恐る恐る顔を上げて周囲を見回すと――。 「「「「「「にゃああああああん」」」」」」  ――なんと、梁から、天井裏から、窓の外から、店の中のあらゆる場所から、無数の猫たちがこちらをじっと見つめていたのだ。猫たちの、ぼんやり光る無数の瞳に気圧されて、数歩後退る。すると青藍さんは、満足げに彼らを見渡すと言った。 「ネットだの図書館だの、そういうのはさっぱりだけれど、当時から生き続けているあやかしは、この日本にはごまんといるわ。そいつらへの聞き込みは私に任せて頂戴。猫の情報収集能力を、見せてあげるわ!」
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