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はじめてのおつかいと、春色ランチ5
「正直、疲れたよサブロー……」
「残ってるのはひとつだけだよ。頑張れ、頑張れ」
サブローに励まされながら最後に訪れたのは、鎌倉駅から電車で一駅の場所にある、北鎌倉駅からほど近い、あじさいで有名な明月院だ。ここには、境内におよそ2500株のあじさいが植えられていることで知られている。開花の季節ともなれば、かなりの数の観光客で賑わうらしい。しかし、まだまだ四月ということもあり、それほど混み合ってはいない。行列はあまり好きではないので、そのことに安堵しながら敷地内に足を踏み入れる。
総門で拝観料を支払い、石畳の上を歩く。すぐに気がつくのは、敷地内のあちこちで見られる低木の多さだ。まだ早い時期だからか、まばらに葉が茂っている、背の低い木が其処此処に生えている。おそらく、これが紫陽花の木だ。これだけ数があれば、満開の頃はさぞ見応えがあるのだろう。
(人気があるのがわかるなあ)
時折聞こえる、鶯の声に和みながら、ゆっくりと境内を進むと、ほどなくして左手に休憩処が見えてきた。どうやら、休憩がてらお抹茶をいただけるらしい。今度来ることがあれば、寄ってみるのもいいかも知れない。右手には、竹林が見える。竹一本一本があまりにも立派な太さで、さぞかし大きな筍が採れるだろうなあ――なんて思っていると、山門に続く階段に差し掛かったところで、ふと視界から三毛猫が消えているのに気がついた。
「サブロー?」
慌てて辺りを見回すも、ぽっちゃりしたおしゃべりな猫又の姿はどこにも見つけられない。
(ボディーガードの癖に、対象から離れてどうするのよ……!)
ふと不安になって、差し入れが入った紙袋をぎゅっと抱きしめた。近くには他の観光客の姿は見えない。道は山門に向ってまっすぐに伸びていて、分かれ道はないようだ。もしかしたら、手前の道で進む方向を間違えたのかもしれない。どちらに進んだにしろ、道は本堂に向かって続いているようだ。ならば、道なりに行けばいつかはサブローに出会えるだろう。
私は深呼吸を何度かすると、意を決して歩き出した。
山々に囲まれるような立地だからか、風が吹くと葉擦れの音が降り注ぐように聞こえてくる。静かな境内の雰囲気は、カフェの周囲とはまた違う雰囲気を持っていて、背筋が自然と伸びるようだ。
――祓い屋に間違われて、あやかしたちに追いかけられたり、齧られたりしないといいわね。
ふと、青藍さんの言葉を思い出して身震いする。途端に心細くなって、やけに肌寒く感じた。
(何事も起こりませんように)
そんなことを思いながら、無言で参道を進んでいく。
けれども、そんな願いも虚しく、山門まであと数メートルというところまで辿り着いた時、異変は起こった。
――クスクスクス。
突然、子どもの笑い声が聞こえてきて、思わず足を止める。
誰かが私を見ている。
私の一挙一動を監視して、それを面白がっている何かが――いる。
(早く山門の奥へ!)
息を止めて、周りを見ないように俯き加減になって足を早める。すると、視界にちらちらと色鮮やかな青が写り込んでくるのに気がついてしまった。
「……?」
不思議に思って、無意識に顔を上げる。そして、途端に後悔した。
――緑の葉の間から、やけに青白い顔をしたおかっぱ頭の少女がこちらを覗いている。それも、ひとりではない。何人も何人も、揃いの青い浴衣を着た少女たちが……それも、まったく同じ顔をした少女たちが、うっすらと微笑みを浮かべながら私を見つめていたのだ。
「……ひっ!」
悲鳴を飲み込んで、じりじりと後退る。少女たちから離れようと、必死で参道を駆け戻ると、少女たちは私の行先を遮るように、低木の間から次々と姿を現し始めた。
『――あなたはだあれ? 鎌倉の子じゃあ、ないわよね?』
鈴の転がるような声。それは普段ならば可愛らしいと思えるような声だけれど、何人もが同時に――それも一拍のズレもなく話し始めると、気持ち悪く思えて仕方がない。
『お前、なんでわたくしたちが視えているの? お前は祓い屋? わたくしたちを殺しにきたの?』
『嫌だわ。わたくし、とっても怖い』
『わたくしだって怖いわ!』
少女の声が参道にこだましている。
言葉だけ聞くと会話しているようなのに、すべての言葉をすべての少女が同時に口にしている。別々の個体に見えて、意識は共有しているのかもしれない。示し合わせた訳でもないのに、普通の人間にこの芸当は無理だろう。
(やっぱり人間じゃないんだ)
そのことを理解して、途端にざあっと血の気が引いていくのがわかった。
「あっ……!」
すると、恐怖に駆られていたせいか、段差に躓いて転んでしまった。荷物を落としたらいけないと庇ったせいで、まともに全身を地面に打ち付ける。鈍い痛みに顔を歪めて、堪らず目を瞑る。それはほんの一瞬のことだ。けれども、次に目を開いた時には、何人もの少女たちが私を取り巻き、憤怒の表情を浮かべて見下ろしていた。
『これ、どうする?』
『邪魔だもの。殺してしまいましょう』
『そうね、それがいいわ。そうしましょう……』
「い、いやあああああっ!!」
すると、ひとりの少女が手を私に向って伸ばしてきた。
――殺される。
逃げようとしても、どうにも体が上手く動かない。咄嗟に、荷物を体の前に差し出して防御する。しかし、そんなもので身を守れるはずもない。私は絶望に包まれて、ぼろぼろ涙を零しながらその時を待った。
(アラサーで、婚約者に裏切られた挙げ句、あやかしに殺害されて死亡とか最低……! うううっ、こんなことなら、あの浮気野郎を一発ぶん殴っておけば……って)
「……あれ?」
――なぜだろう。いつまでたっても、痛みも衝撃も襲ってこない。
もしかしたら、私を殺すのを止めてくれたのだろうか。けれど、荷物を下げて周囲の状況を確認するのも怖い。そんなことをつらつら思っていると、ふいに誰かに荷物を取られてしまった。
『うん。やっぱりこれ、朔之介のご飯だわ!』
『きゃあ、おすそ分けね? おすそ分けだわ!』
みると、先程まで怖い顔をして私を囲んでいた少女たちが、満面の笑顔を浮かべて紙袋を覗き込んでいるではないか。すると、急にガサガサと近くの茂みが動いて、そこからひょっこりとサブローが出てきた。
「あれ、ここにいたの」
「さ、サブロぉぉぉ……!」
「な、なんだよう! どうしたんだよ、詩織姉さん」
ふわふわの三毛猫を思い切り抱きしめて、もふもふの毛に顔を埋める。
「一体どこに行っていたのよ! 怖かったんだからね!」
「えへへー。知ってる? この上にウサギ小屋があるんだ。ちょっとさ、それを見てた」
「……絶対に許さない」
「うにゃ!? ごめん」
真顔で、サブローのよく伸びる頬を引っ張る。
どうやらこの猫、ボディーガードの役目を忘れて、楽しく遊んでいたらしい……。
サブローは気まずそうに視線を逸らすと、苦し紛れに言った。
「そんなに怒らないでよ。ほら、おすそ分けの相手にも無事に出会えたわけだしさ」
「全然、無事じゃないけどね!?」
私は大きくため息を零すと、サブローを解放してやった。
どうやら、あの少女たちが最後の相手だったらしい。何はともあれ危機は去ったようだ。……が、全身に擦り傷が出来て、正直動くのが億劫だ。どうしようと途方に暮れていると、少女たちが私に声を掛けてきた。
『あなた、朔之介のお友だちだったのね? 脅かして、ごめんなさい』
『ごめんなさい』
『ごめんなさい……』
幼気な少女たちに頭を下げられて、途端にバツが悪くなる。ひらひらと手を振りながら、きちんと事情を話せばよかったのに、怖がってばかりいた自分も悪いのだと言うと、少女たちの顔が見る間に明るくなった。
サブローによると、彼女たちはここ明月院のあじさいの精なのだという。
明月院のあじさいの歴史は、それほど長いものではない。第二次世界大戦後に、人も物資も足りない時代にあって、杭の代わりに「手入れが簡単だから」という理由で植えられたのが始まりだ。普通、植物があやかしと成るためには、もっと長い年月が必要なのだそうだ。けれども、彼女たちは今日までたくさんの人に愛でられてきたおかげで、あやかしとしての生を得ることができた。だからなのだろう、彼女たちあじさいの精は、自分たちの見かけにやけに自信満々だった。
『でも残念ね。あとふた月もすれば、わたくしたちの季節だったのに』
『そう残念ね。雨の季節になれば、桜なんて目じゃないわ。わたくしたちが主役だもの』
『本当に残念ね。みんな褒めてくれるの、綺麗、可愛い、素敵って』
――どうも、自分たちの盛りの姿を、新参者である私に見せたかったようだ。けれども今はまだ春。梅雨の時期には少々早い。
すると、少女たちは私に尋ねた。
今は見られなくとも――自分たちの美しさは、もちろんあなたも知っているわよね?
「んー……」
正直、私は困ってしまった。
あじさいを見たことは勿論あるけれど、薔薇やチューリップなどに比べれば、それほど印象に残っていなかった。嫌いな花ではないが、特段好きだというものでもないから、思い入れもない。梅雨の時期に花屋で売っているな、と思うくらいだ。
『わたくしたち、綺麗?』
あじさいの精は、私の袖を指先で引っ張って、潤んだ瞳で見つめてくる。
先程まではあんなに怖かったのに、自分に害をなさないと分かると途端に可愛く見えるから不思議だ。私の袖を引いている少女の瞳を覗き込む。こんな可愛い子に嘘を付くのは忍びない。ここは大人として、真摯に答えるべきだろう……そう思って、正直に告げた。
「実は私、あんまりあじさいを見たことがなくて……ごめんね。綺麗かどうか、ちょっとわからないなあ」
『……そうなの?』
「それに、ここに来るのも初めてなの。今年の梅雨の時期には見に来るから、許してくれる?」
その瞬間、あじさいの精の目の色が変わった。
それは比喩でもなんでもない。彼女の白目が消失し、ぞわりと闇が侵食するように、目全体が黒く染まったのだ。
そうすると、途端に可愛らしい少女が化け物じみて見えて、思わず上半身を仰け反った。けれども、あじさいの精は小さな手で私の顔を鷲掴みにすると、思いの外強い力で自分の方へ引き寄せた。間近に迫った幼い顔に戸惑っていると、彼女は見かけの割にやたら艶っぽい――大人の女性がするような、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
『――目を閉じて』
その言葉と共に、小さな手が私の視界を塞ぐ。
――こつん。
硬いものが額に触れる。おそらく少女の額だろう。ほんのりと他人の体温を感じる。すると次の瞬間、周囲の空気が変わったような気がした。春の麗らかな空気から、しっとりと濡れたような空気へ。しとしとと水滴が落ちる音が鼓膜を震わせ、ひんやりとした風が頬を撫でた。
ゆっくりと目を開ける。
その時には、少女は私の前から消えていた。
けれども、私はそれを気にする余裕がなかった。なぜならば、眼前に広がる光景に見惚れてしまっていたのだ。
「……素敵」
――それは、盛りを迎えたあじさい畑の幻。
先ほどまでまばらだった葉はフサフサと茂り、若草色から濃い緑へと変化を遂げている。雨が降った直後のように、辺り一面がしっとりと濡れていて、その葉の上には、透明な雨粒が残り、きらきらとまるで宝石のように輝いている。濃緑に囲まれて存在を主張しているのは、目が醒めるような深い青。明月院ブルーと呼ばれるその色は、濡れて一層鮮やかになった緑の中でも、くっきりと浮かび上がり景色を彩っていた。
ほう、と熱い息を漏らす。あじさいの目の醒めるような青。夏の空を切り取ったような、そんな爽やかさを含む青は、これから訪れるであろう暑い季節を予感させてくれ、ずっと見ていても飽きない。じん、とその美しさが胸に沁みる。
私は――知らず知らずのうちに、涙を浮かべていた。
『おねえちゃん。わたくしたち、綺麗?』
おずおずと、少女たちが近づいてくる。
私は彼女たちをぼんやりと眺めると、賛辞を贈るべく口を開こうとして……また、閉じた。この感動をどう言い表せばいいか、正直わからない。この胸の高鳴りを、私のなかにある語彙ではとてもではないが表現できそうにない。でも、不安そうに見つめている彼女たちの期待には応えたい――こんな素晴らしい景色を垣間見せてくれた彼女たちに、真摯な想いを伝えなくては。
私は少し考え込むと――シンプルな言葉に、自分の気持ちをすべて込めて言った。
「今まで私が見た花のなかで、一番綺麗だよ」
すると少女たちは揃って頬を紅潮させて、破顔した。
『あなた、とっても素直ないい子ね。約束して。梅雨の時期には、絶対に遊びにくるのよ。本物は――もっと、もおっと綺麗なんだから」
そう言って、少女たちはクスクスと笑ったのだった。
しばらくして、景色に春が戻ってきた頃。
私は、カフェに戻るためにヨロヨロと歩き出した。すると、私を総門まで見送るのだと、あじさいの精たちがワラワラと追いかけてきた。少女たちを侍らせて進む自分は、側から見たらどう見えるのだろうと想像して、笑みを零す。
「あ、そうだ」
ふと気になって、あじさいの精たちにおすそ分けの中身を尋ねる。すると、少女たちは快く教えてくれた。
「これは春のおすそ分け。わたくしたちが一番輝く季節のかけらよ」
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