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1月15日、高輪探偵事務所の朝は一本の電話から始まった。
日も当たらない角部屋の狭いオフィス。お世辞にも高いとは言い難いテーブルの上で、スマートフォンが震えながら甲高い音を鳴らしつづけている。にも関わらず、当探偵事務所所長、高輪征爾は微動だにせずだらしなくソファに横たわっていた。
ここ2、3日は何の依頼もなく、昨日は遅くまで飲み歩いていた。その為、朝6時の電話に出られる筈がない。いつまでたっても起きようとしない征爾の頭を誰かの手が思いきり叩いた。
「いっって!」
激痛が走り頭を押さえながら薄く目を開けると、目の前のでかい影がこちらへスマホを差し出している。毛布を頭からすっぽりと被り征爾を見下ろすその人物は、この事務所の端っこに住む御子柴有だ。無駄にでかい身長は木偶の坊と呼ぶに相応しい。
「さっきから鳴ってる」
有が不機嫌そうにスマホを押し付け、また隅の衝立へと消えていった。
文句を言いながらやっとの事で体を起こし、スマホの画面を確認する。そこには元同僚、蓼科大貴の名前があった。刑事からの電話など嫌な予感しかしない。タッチパネルのボタンを押すと同時に溜め息が出た。
『やっと出たと思ったら溜め息かよ』
大貴の呆れた声に征爾は小さな笑い声で答えた。
「どうせロクな知らせじゃあないんだろ?」言いながら煙草を灰皿から漁る。長めの吸殻をみつけ気付けの一服とする事にした。寝ぼけた頭と視界がハッキリとしていく。
「で、用はなんだよ?」
『あぁ、まぁ変な話なんだ。1週間程前の事件なんだけどな、その目撃者がなぁ……』
何故だかはっきりとしない物言いで始まった大貴の説明を聞いて、征爾は思わず声を上げた。
「そりゃ、酔っぱらいの戯言だろう?」そう言いたくなるのも当然だった。
大貴の要求は3人いた目撃者の内、残りの一人について情報を集めて欲しいというものだったのだがその話がどうにもおかしい。
目撃者は聴取した二人の他にもう一人いた。それには違いは無いようだが、その姿は一方は「若い男」だと言い、一方は「女子高生」だったと言う。そんな馬鹿な話は聞いたことがない。
お気の毒に。
これをあの強面の上司へどう報告したのか、征爾は想像して口元が緩んだ。
「これはお前の独断か?」
『まぁ、情報が欲しいというのは。引っ掛かるんだよ。証言によると……これは解ってるだろうがオフレコで、犯人は未成年らしいんだな、どうも』
征爾は煙草の煙を吐き出して、聞こえるようにまた溜め息をついた。そうなると戯言をほっとけない、大貴はそう言いたいのだろう。
「女子高生」顔見知り、同級生、なんにせよ重要な証言が得られるかも知れない。
「なるほど、ね。まぁ、隅に留めておくよ」
『あぁ、悪い。頼むな』
切れたスマートフォンをテーブルに置き、煙草を灰皿へ押し付ける。しばし考えを巡らせ席を立とうとしたその時、事務所の鍵が開く音がした。
「おはよう、有君。朝御飯買ってきたよ」
入ってきたその影は征爾には目もくれず、真っ直ぐに衝立へと向かう。征爾はその後ろ姿に声をかけた。
「あやちゃん、俺には珈琲ね」
「!居たんですか!高輪さん」
驚くあやを尻目に征爾は大あくびをして、また横になる。そんな征爾に文句をつけつつ、備え付けの小さなキッチンへ向かった彼女は、この事務所の秘書兼助手で高円寺あやといった。かつては征爾の依頼人であったが、故あってここに勤めてもう2年が経つ。
「俺の事務所だし、いるよ。……にしても」
「なんですか?」
焼きたてのパンの香りが事務所の中に充満していく。
やがてその中に有の好きなミルクティーの香りも交ざり始めた。キッチンからカップとパンをトレーに乗せ、持って出てきたあや。
「ごめんなぁ。こんなに世話しても、あいつ鈍いだろ?俺の教育が悪かったかなあ」
征爾は小声でそう言い、あやに向かって片目をつぶる。
からかうような声にあやの肩がビクりと跳ねた。
「なぁ!なな何を言ってるんですか!私は別に、ちょっと心配で……その」
彼女の途切れ途切れになった言葉に、有の声が被さった。
「あやちゃん、腹減った」
「あぁ!ごめんなさい!……高輪さん、珈琲はご自分でどうぞ」
嫌味を残し、いそいそとトレーを衝立から伸びる手へと渡しに行く後ろ姿は手慣れていて、習慣であることは明白だ。だいたい事務所が開くのは朝10時。6時30分は早すぎる。
その甲斐甲斐しいあやの様子に、征爾は有の他人への興味が薄いその性格を思い少し何とかしてやらないと、などど柄にも無い事を思わずにはいられなかった。
「困ったもんだな。」
やれやれ、と独りごち珈琲を入れにキッチンへ立つ。そこで珈琲の瓶を探すのに手間取っていると、ぬっと目の前に瓶を差し出された。
「高輪さん、今日は依頼人の方が朝イチで御見えになるの覚えてますよね?」
何故かこちらをじっと睨みながらあやが言う。
いつもそうだが、あやは征爾にはとてもキツイ。これはいい加減な性格の征爾に問題があるのだが、今朝のは有との事をからかった上司に向けて明らかに威嚇の意味合いが込められていた。そこには触れてくれるな、と。
「ゴメン、なんだっけ?」
勢い良く置かれた瓶の音に、今度は征爾の肩が跳ねる。
「いいですか?仕事だけに集中して下さい」
だけ、を強調してあやは今日の依頼について話始めた。
「依頼人は結城岳人さん、ご夫婦で御見えになるそうです。息子さんが家出をして」
そこで征爾が、あぁと声をあげた。
「それね。ハイハイはいはい。10時でしょ?わかってる」
早口であやを制し、逃げるようにカップを片手に新聞を拾いあげた。
「あやちゃん、ここ1ヶ月分の新聞、後で用意しておいて」
大貴が持ち込んだ話。ああいった事件は前が必ずある筈だ。或いは、それが初めての事件だったか。どちらにせよ闇雲に場所を探る訳にはいかない。ここ1ヶ月で当たるかはわからなかったが、調べてみる価値はありそうだった。
「また、大貴さんですか?ま、いいですけど」
あやは呆れ気味に呟き、事務所の掃除に取りかかった。その間、征爾は有に2ヶ月前まで遡って通り魔事件がなかったかインターネットでも調べるように指示をして、自分は新聞に目を通し始めた。
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