(〇一)

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(〇一)

 連日、時期外れの猛暑で全国的にへばっている五月の最終土曜日……  古びて薄汚れたグレーの鉄板扉の左横の同じく薄汚れた壁に、達筆で縦書きにした新品の事務所看板を貼り付けた俺は、首にかけたタオルで、シャツに張りついた汗を拭きながら、少し離れて斜めになっていないかを確認した。  看板の大きさは横二〇センチ、縦五〇センチぐらいだ。  俺は看板に書かれた『不動探偵事務所』の文字を見て、やはり胡散臭いやろかと考えた。  そもそも今の時代、“探偵事務所”っちゅう名称なんて、小説や漫画では当たり前に使われても、現実ではそうそう使うもんやないし、怪しさ満点である。  やはり“興信所”や“調査事務所”の方が良かった気がする……  せやけどまあ、せっかく知り合いの看板屋に値切って作らせたんやし、暫くはこれでやったろか。  新規開店前にケチつけてもけったくそ悪いし、俺はそう一人で納得した。  俺は廊下で、真昼の太陽を背中に浴びた暑さにうんざりしたので、扉を開けて中に入ると、今一度、室内を見渡して更にうんざりした。  室内には全てリサイクル品だが、事務机が二つに来客用のソファと小テーブル、テレビ台に書類棚、段ボール数箱が乱雑に置かれていた。  ちなみに、冷蔵庫だけは先に部屋の隅に設置している。  奥にもう一部屋あるが、そこはいわゆるプライベート・ルーム……つまり、俺の居住区。  そもそも、整理整頓が苦手な俺がこの土日の二日で、この惨状を片付けようとしたんが間違いやわな。  唯一、快適と思えるのは、備え付けのエアコンの調子がええことや。  俺は本来の怠け癖から、来客用ソファに勢いよく座り、手近の段ボール箱に両足を乗せた。 「あ~、もういやや!」  俺は思わず嘆いた。  元々、三五歳とはいえ、身長一六〇そこそこに対して太りすぎている俺が、一人でこれだけの片付けをするには無理があるわな。  このままパチ屋にでも行こかいな…  そんなことを考えていると、遠慮ぎみにドアがノックされた。  まだ、事務所開業の宣伝もしとらんのやから、依頼人が来るはずも無い。  どうせ、なんかのセールスやろうと思い、俺は無視していたが、少しの沈黙の後、再び、ノックの音がした。  しつこいな……  俺も意地になって無視を続けた。  すると、今度はノックと同時に、 『あの、不動さん……』  と、若い女性の声がした。  なんや、セールス・レディかいな……それとも、宗教の勧誘か?  俺は無視した。  しかし、三たび扉が…今度はやや強く…ノックされ、 『不動さん! いるのはわかってるんです! 開けてくれませんか!』  と、力強い声がした。  俺のことを知っとる口調だが、声に聞き覚えは無い。  顔でも見たら思い出すやろうと思い、俺は仕方無く立ち上がり、ドアを開けた。  目の前に立っていたのは、二〇代前半、俺と同じぐらいの身長で薄い水色のブラウスに黒のスカート、黒いショルダーバッグを左肩にかけた女性である。顔はやや丸く大きな瞳が特徴的で、化粧も薄い。  俺の中では、美人と言うよりは可愛い部類に入るタイプや。  そんなことより、顔を見たが、俺の知らない女性だ。 「なんや?」  と、俺は訊いた。  女性は上から下まで、ジッと俺を見た。  今の俺の出で立ちといえば、汗まみれの白のシャツに黒のジャージ、首にはタオルをかけているといった具合で、とても探偵には見えない。 「不動さん…ですよ、ね?」  と、女性が確認するように訊いたので、俺は肯定の返事をした。 「人を探して欲しいんです」  と、その女性が言った。  俺は右手を軽く振り、 「あかんあかん、まだ新規開店準備中やさかい、他あたってんか」  と、却下した。 「お願いします!」  と、その女性は物怖じしない元気な声で応え、ペコリと頭を下げた。 「姉を探して下さい!」 「んなことされても無理やから。開店に向けて、まだせなあかんことが多いさかいな。ほんま、他あたり」  俺はそう言ってドアを締めようとしたが、 「待って下さい」  と、引き止められた。  女性はバッグからスマホだかアイフォン…つまり、携帯電話を取り出すと、どこかへ電話をした。  それにしても、まだ表看板も出してないのにこの女性、よく三階まで上がって来よったな……  俺がそんなことを考えてる間に、相手が出たのか、女性が、 「あ、江森です…」  と、俺に背を向けて挨拶する。  江森と名乗る女性は、暫く話していると、やがて、俺の方を向いて携帯電話を差し出し、 「代わって欲しいそうです」  と、言った。 「……?」  戸惑っている俺に、江森が携帯電話を押し付けた。 「もしもし……」  と、俺が言った瞬間、 『おぅ、不動! ちょっと彼女の話、聞いたってくれや!』  そう威勢のいい聞き慣れた声が、俺の鼓膜に響いた。 「その声、アブさんでっか?」  と、俺は驚いて言った。  アブさんこと阿武山良太は、大阪府警捜査一課の警部補であり、去年までの俺の上司だった人だ。 『お前さんの開店祝いに、依頼人第一号を紹介したったんや、しっかりこなせや』  江森が三階まで来れた原因は、この人か…… 「いや、あの……こっちはまだ準備中でっから、今紹介されても……」 『なに細かいこと言うとんねん! そないなことやと、商売繁盛せえへんで。まあ、しっかり頼むわ!』  アブさんは一方的に話すと、通話を切ってしまうのだった。  俺は携帯電話を耳元から離し、江森を見た。  彼女は期待と懇願が混じった表情で俺を見ていた。  俺は小さく溜め息を漏らすと、江森に携帯電話を返し、 「ほな、入り」  と、彼女を招き入れることにした。 「散らかっとるけど、文句言いなや」  江森は部屋の惨状を目にして、少しばかり戸惑っていた。 「足の踏み場もないやろ」  そんなことを言いながら江森を来客用ソファに座るよう促し、俺自身は机に座った。 「……で、お姉さんを探して欲しいとか言うてましたな?」  俺は相手が依頼人=客だと意識し、敬語で質問しながら周囲を見渡した後、段ボール箱に無造作に置いてある夏物の麻の濃紺のジャケットを引き寄せ、その内ポケットからボールペンを挿してある手帳を取り出した。 「はい……」  と、江森は返事をしてから、クスッ笑った。 「どないしました?」 「その手帳、可愛いですね」  と、江森は俺の手帳を見て言った。  俺の手帳はスヌーピーがデザインされた、いわゆるキャラクターグッズである。 「スヌーピー、ガキの頃から好きですねん」  と、俺は言った。  江森は再び笑った。  それから俺はまず、江森に自己紹介をしてもらうことにした。  江森はフルネームを江森七美といい、年齢は二五歳。高槻市在住で、京都市内でOLをしているという。  続いて姉について質問した。  江森……いや、七美の姉は仁美といい、二八歳で大阪市内で独り暮らしをしているOLらしい。 「その仁美さんが行方不明にならはったっちゅうことですが、それ、いつからですの?」 「正確にはわかりません。でも、連絡が取れなくなってからは一週間になります」 「一週間ねえ……でも、離れて暮らしてたら、一週間ぐらい連絡が取れへんかて、どうちゅうことあらへんとちゃいますか?」 「そうですけど、近々、親戚の結婚式があって、その事で私と姉は、しょっちゅう連絡を取り合ってたんです。それが、この一週間、プッツリと……電話もメールもLINEもしたんですけど、返事が無くて……」 「ご両親はなんて?」 「心配してます」  確かに、音信不通……しかも、こちらからの連絡に対して返事をしないのは、家族としては気になるやろうな…… 「それに……」  と、七美が呟く。 「なんですの?」 「最後に姉と話した時、気になることを言うてたんです」 「気になること?」 「はい……“確かめなあかんことができた”とか言うてました」 「確かめる……何をですか?」 「さあ、私も訊いたんですけど、教えてくれませんでした」  俺たち二人は、そこで沈黙した。  やがてタバコを吸いたくなった俺は、七美に吸うしぐさをして、 「これ、よろしいでっか?」  と、訊いた。  しかし七美は、 「私、タバコ嫌いなんです。すいません」  と、キッパリと拒否した。  可愛い顔をして、意外とキツイ性格をしとるな。  俺は取り繕うように、 「他に何か言うてましたか?」  と、訊いた。 「いえ、特に……」 「連絡が途絶える直前やなくてもいいです。最近、お姉さんに他に変わったことはありませんでしたか?」  七美は少し考えてから、首を横に振った。 「お姉さんの友達とかには、聞きに回りましたか?」 「はい。私の知っている範囲でですけど……」 「お姉さんの会社にも?」 「はい」 「お姉さん、彼氏とかは?」 「さあ、わかりません」 「わからない……って?」 「彼氏がいるかどうか、わからないんです」  俺は軽く頷いた。  とりあえず、聞きたいことは訊いた。  本来なら断って部屋の片付けをしたいところだが、ここまで根掘り葉掘り訊いた以上、断るわけにもいかんやろうし、なにより、アブさんの紹介……  あれ?  そういえば、この七美ってコ、アブさんとどういう関係なんや?  俺はアブさんとの繋がりを質問した。 「私が姉の捜索願いを出しに来た時に、親身になって話を聞いてくれたんです」 「……? 捜索願い、わざわざ府警本部まで出しに行ったんでっか? 高槻から?」  と、俺は驚いて言った。 「はい。姉は市内在住ですし、本部と名のつくとこの方が、きちんとしてくれはるやろと思いましたから」  この女、見かけとちごてしっかりしとるわ…… 「ほな、そこでアブさんと?」 「はい。捜索願いが受理されて帰り際に、不動さんのことを紹介されたんです」  俺は納得した。  そして俺は、料金と調査方法について説明した。  料金は前払い。  調査方法としては、相手から期日指定が無い場合は一週間単位で契約し、その一週間ごとに調査を継続するかどうか、依頼人と相談して決める。  ただし、その一週間の間に、依頼人側から調査打ち切りの要望があった場合、三日以内なら日割りで返金するが、四日以降は返金しない。 「それでかまいません」  七美は納得し、俺は契約書は後日でもいいか訊いた。  七美はそれも納得した。  七美にとっては、早く調査を始めてもらいたいようだったので、俺は手始めに姉の部屋を見たいことと、その姉の会社や友人知人の連絡先のリスト作りを頼んだ。  七美はこれも了解したので、俺が着替えたあと、これからさっそく、彼女とともに、俺の愛車であるオンボロ中古の黒の軽ワゴンで、姉・仁美の部屋に行くことにした。
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