第十話:死神教授と出来心

2/3
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
 ユウナの執刀を担当する若い医師は緊張を隠せずに居た。両肩にのしかかる責任の重さに、ついこの場から逃げ出したくなる。だが、この仕事を志した以上、それは出来ない事であった。ならばベストを尽くして事に当たるしか無い。  惜しまれるのは、数年前に、この術式を行うに当たって、もっとも参考になったであろう医師が、既にこの世の人ではないと言う事だ。生前に教えを受けていれば、ここまで追い込まれた気持ちになることも無かっただろうに。だが、それはもはや、願っても叶わぬこと。若くして亡くなったその医師の無念さも察するに余りある。  オペに入る前に手を洗いながら、入念に精神を集中する。麻酔、消毒、清潔な布による患部以外の被覆。すべての準備は整っている。術着に着替え、こちらも緊張の極致にあるスタッフに対し、オペの開始を告げようとした時、部屋の自動ドアが開いた。「この最も重要な瞬間に何事だ!」怒りを込めて侵入者に視線を投げる。と、その目が驚愕に大きく見開かれた。  自分と同じオペ着に身を包んだ人物、その背後から、黒いタイツを着込んだ異形の者達がなだれ込んで来た。「動くな!」異形のものたちはそう言うと、次々に銃のようなものをスタッフに突き付けた。「これは脅しではない。このオペ室は、われわれチョーカーが制圧した。」  一人の黒タイツが、壁に銃を向けると一発ビームのようなものを放った。忽ち、そこにあったインターホンが溶け落ち、プラスチックが焼ける嫌な匂いが部屋に充満する。と、何故か理由は全く解らないが、部屋の空調が突然凄い勢いで廻り出した。まるで、事が起きるのを予め予見していたかのように。  「今ので判っただろう。この患者を救いたければ、吾輩の言うとおりにしろ。抵抗すれば撃つ。撃たれても麻痺するだけで死にはしないが、メスを握れるようになるには丸一日掛かる。このことが意味するものは、お前たちも医療に関わる以上、理解できる筈だ。」  相手の噛んで含めるような言い回しに、違和感が最大限に募る。だが、次の瞬間、闖入者が語り出した患児の病歴と見解を聞かされて、執刀医を含む一同は仰天した。あまりにも詳細、専門的かつ的確な指摘。思わず彼は口走ってしまっていた。「先生は一体…」相手を医師と認める”先生”と言う魔法の言葉が口から出た瞬間、その場の主導権は完全に闖入者の側に移ったのだった。  「私は夢を見ているのだろうか。」若い医師は驚嘆すると共に、陶酔感で目眩すら覚えた。鮮やかな、いや、鮮やか過ぎるメスの動き。ありふれた手術用具が、目の前に立つ人物の掌で、まるで命あるものであるかのように自在に動き回る。彼は自身の執刀術にかなりの自信を覚えていたのだが、いま目の当たりにしている相手のテクニックは、遥かに自身の能力を凌駕している。  それでいてオペの進め方は極めて保守的だ。保守的なのに手が早いので、あっという間に処置が進む。安全マージンを最大限に確保しながら短時間で進んで行くので、更に安全性が高まるという理想的な展開。そして負けまいと必死の努力を傾注していくうちに、お互いの呼吸が徐々に合い始め、更にオペは加速し始めた。  熱気というものは伝染する。銃を構えた武装集団に脅されていると言うのに、麻酔医も看護師も我を忘れてオペの進行に没頭する有様だ。やがてオペが山場を越えようと言う時、若い医師は気付いた。「先生、その手首の返し方…」  「気付いたか。」謎の医師は言った。「私が考案した。やってみるかね?」「はいっ!」若い医師は思わず即答していた。安全そうな所を選んで、見様見真似で動きを再現しようとする。最初は上手く行かなかったが、だんだんとコツが掴めるようになって来た。そして若い医師は気付いた。その方法が、かつて自分が教えを請おうとした医師が得意としていたテクニックだと。  無事に創を閉じ終わると、若い医師は魔法が解けたような気がした。もう大丈夫だ、そう確信し、若い医師は尋ねた。「先生、あなたはもしや、ざ…」  「吾輩は死神教授。悪の秘密結社チョーカーで改造人間の製造に携わっている。」謎の医師は感情の一切籠もらない声で冷たく言い放った。「前世がどうであったかなど、吾輩には一切興味がない。今度のことは、ほんの出来心だと思いたまえ。」  「さて、吾輩はこれで失礼する。諸君らに今日の出来事に対する感謝の心があれば、警察への通報は10分位待って頂けると有難い。もっとも…」ベッドの上に横たわる小さな身体に目を落とす。そこに一瞬、人らしい感情のゆらぎが過ったように、若い医師には思えた。「この子の麻酔が覚めるかどうかが本当の勝負だ。君らには、余計な事に構っている時間は無い筈だ。そうだろう?」  そして、入ってきた時と同じ様に、一団は静かにオペ室から退出したのだった。残ったスタッフの視線が集中するのを感じ、若い医師は決意を込めて言った。「さあ、大先生の言った通りだ、我々はこの子に対して全力で責任を果たす。いいね。」
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!