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 とうの昔に馬は息絶え、息つく間もなく歩き続ける。日中の日差しから打って変わり、気まぐれな夜風が身を切り裂く。満天の星でありながら、風情に浸る余裕も無い。白砂の丘を何度も登り、降りては登りを繰り返す。見える地形は一切変わらず、常に波打ち、佇んでいた。  三人だけのキャラバンが足跡を伸ばす。踏み込むたびに崩れ落ち、砂が斜面を流れ行く。手と膝を砂に着けながら、彼らはまた一つ丘を乗り越えた。 「姫様。エンリル王国でございます」  息も絶え絶えに老婆が言った。銀に輝く月光が、地平線上に城塞都市を照らしあげる。厚手のフードを取り去って、姫と呼ばれた少女は地平の先へと目を向けた。 「エンリル王国には、かのレイラン王が居られます。先王がお隠れになられてから、若くして王座を継承したと伺っております。あの悪戯王子が、さぞかしご立派になられたことでございましょう。あぁ、なんとお懐かしい。姫様も、幼いころは王子と共によく悪さをしたものですな。ブタを乗り回してはお召し物を泥だらけにした事。この婆、昨日の如く覚えておりますとも」 「シャマシュ。あの時のこと、私もよく覚えております。そんなにブタと過ごしたいのなら好きなだけ一緒に居れば良い。と、一晩中ブタ小屋に閉じ込めましたね」 「なんとも恐れ多いこと。姫様の為、を口実に厳しくしすぎたと、重々反省しておりますとも」 「よいのです。すべては懐かしき思い出の中に。私の事を思えばこそと、充分に理解しておりますから」  老婆は深々と頭を下げる。  草木の一つも生えぬ中、夜風は狼のように駆けまわり、自然の笛を吹き鳴らす。細かな砂塵が頬へと当たり、痛みを与えて消えて行く。 「姿は見えませんがこの砂漠です。帝国の足も遅れているでしょう。おそらく一日分はあるはずです」  背後へと目を凝らしていた男がフードを被る。顏は暗い影に覆われながらも、目には穏やかな光が宿っていた。 「ありがとう、ゼルガン。このような所までついて来てくださった事、深く感謝しております」 「自分は騎士として叙任したその日から、最後まで御身をお守りすると誓いました。姫様の剣として、どこまでもお供いたします」  片膝を着き頭を垂れる。大柄で筋肉質な肉体は、王族騎士でありながらも無数の刀傷が刻まれており、少女自身、数多の窮地を救われてきた。 「レイラン王ならば、必ずや手を貸してくださいますでしょう。虜囚と化した我らが王を救うためにも、打って出るべきでございます」 「いいえ、シャマシュ。私たちはエンリル王国では物資の補給のみ行うに留め、早々に立ち去るべきです」  シャマシュの瞳に月の光が映りこむ。皺の一つ一つが深く刻まれ、頬は弛み、大地へ引き寄せられている。少女より一回り小柄な老婆は、歪んだ背筋でさらに一回り小さく見えた。 「その、お心積もりは?」 「幸いにも帝国の魔の手は、まだ届いてはおりません。あの国には、私達には成し得なかった和平の道があるやもしれないのです。レイラン王子はお優しい方でした。私たちが助けを求め用ならば、必ず答えようとするでしょう。それはつまり、避けられぬ戦の道へ突き進むこととなるのです。果たして我らが王は、他国の兵を、民をも犠牲にしてまで、自らの救出を望むでしょうか。私たちは私たちの力で遂げねばならぬのです」  砂丘の形がまた変わる。少女の言葉に耳を傾けていたシャマシュは目を細めると、顔を綻ばせた。 「至極もっともでございます。過ぎた発言をお許しくださいますよう」 「許すも何も、貴女の発言は全て王を思っての事。なにも咎める事などありません」  感謝の言葉を並べ立て、少女の手に口づけをする。凍えるような寒さの中で、乾燥しきった老婆の手がとても暖かかった。 「して、ゼルガンよ。非常時と言えども、非常時であるからこそ礼儀をわきまえねばなるまい。使者として一足先にエンリル王国に赴き、姫君の訪問を言伝して参れ。なぁに心配はいらん。お主の見立てを信用しておるからな」  承知したと、ゼルガンは短く告げる。少女は下ろしていたフードを深く被りなおすと、地平の王国へと歩き出した。
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