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2話
衣類を整えながら腕時計を確認する。時刻は深夜の二時を回ろうとしていた。幸いにも大学の講義は三限目からなので寝坊はできるだろう。いや、大学が始まる前に持病のうつ病のため、病院へ行く必要があるのだが、大した問題ではないはずだ。
「ありがとうございました」
見ず知らずのその男に壮太は深々と頭を下げる。男とのセックスは最高だった。今までに感じたことのない快感まで味わってしまい、もう一度、と強請りたくなるくらいだ。
「どういたしまして。こちらこそ、とてもいい時間だったよ」
男はとても紳士的に応対してくれる。スーツ姿だったのできっと会社からの帰り道にバーへ寄ったのだろう。その男の表情はとても穏やかで、ついつい惹かれてしまう。多分、壮太の好みの顔なのだろう。とんでもなくイケメンで、背が高くて、モデルですか? と聞きたくなるくらいの容姿と風貌だった。声をかけてくれた時に直感的に「好き」と思ってしまうくらいタイプの人間だった。一夜限りの相手であることが悔やまれるくらいだ。
「すみません、お金、出させちゃって」
「オレ社会人だし、気にしないで」
大学生であることは飲みの場で言っていたので、ホテル代を払う時、気を遣わせてしまっていた。折半すると言ったけれど、参考書代に充てなさい、と突き返されてしまった。
「オレは出るけど、君はどうする? 終電もうないよね?」
「あー、大丈夫です。家、近いんで」
「わかった」
嗚呼、本当に一夜限りにするには勿体ない男だ。もう一度、その大きな腕で抱擁してほしい。その手で滅茶苦茶にしてほしい。そう願ってしまうくらい魅力的な男だった。
「……あの、」
言い留めて、だけど、また会えませんか、と言いたいのはぐっと堪えた。
「名前、聞いてもいいですか」
「最初で最後なのに、名前、気になるんだ?」
くすり、と男は笑う。きっと何もかも見透かされているのだろう。それでも男からまた会おう、なんてことは言わない。余裕あるなあ、と思うと逆に余裕のない自分がいて本当に悔しい。
「葵(あおい)だよ」
葵。心の中で反復した。本名なのか偽名なのかは分からないけれど、男のことを少しだけ知れて、ただそれだけなのに嬉しくなった。
「名前、呼んでくれる?」
葵は優しく微笑み、近付いてきた。ドキドキするのをバレないように俯いて、葵さん、と呟くと、ぎゅ、と力強く抱きしめられた。瞬間的に、顔が真っ赤になるのを感じた。
「抱いてほしいって顔に書いてあったから」
「……勝てませんね、完敗です」
「ふふふ。本当に惜しいけど、約束だもんね」
そう、最初に約束したのだ。何があっても、今からの行為を最初で最後にするのだと。自分からした約束を破棄するなんてできないし、恋人探しのつもりでバーに行ったわけでもないので壮太はこくり、と頷いた。
「大学、遅刻しないようにね」
「はい、ありがとうございます」
そう言うと、葵は頭を撫でてから部屋をあとにした。ラブホテルに一人でいたって何にもならないので壮太もさっさと出ようと支度をする。
「あれ?これ、」
テーブルの上に一冊の本が置いてあった。ブックカバーがつけられているので中身が何なのかは分からない。が、あの男の忘れ物であることは間違いないだろう。
「どうしよう……」
届けたくても住所は知らないし、知らせたくても連絡先が分からない。あのバーの常連であるなら、もしかしたら通えば会えるかもしれないが。
「……」
ここに置いたままにするよりは持って帰ってバーの店員に預けた方が葵の手に渡る可能性は高いだろう、そう思い、壮太は本をカバンにしまっていそいそと部屋を出た。
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