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第三十二話
二年前に滑り落ちる道の途中で、睦月の声が頭に直接響いてきた。
『未咲、ありがとうね』
――ありがとうって、なんでだよ?
『だって夢が叶ったんだもの。未咲とひとつになれて、僕がどれだけ幸せだったか分かる?生きてて良かったって言いたいところだけど、残念ながら死んでるからさ』
――これからもずっと一緒じゃないか。
『僕はいつでも未咲の側にいるよ』
――睦月ッッ!
声にならない叫びを上げた瞬間、俺の眼前に二年前のあの日の幕が開いた。
***
「未咲、ちょっと痩せた?」
高架下で待ち合わせした睦月は、初めてここで会った時と同じ制服姿だった。俺の置かれている状況は既に承知しているのだろう。気遣う眼差しの奥が、不安気に揺れている。
例の写真をバラ撒かれて以来、俺は実に数週間ぶりに外に出た。
と言っても、時間は深夜でテッペンを回っているし、夕方から降り出した(らしい)雨のせいで人気の無い駅のロータリーは、俺が引き籠っている部屋の中とさして変わらない様にも思えた。
もともとSNSの中にいる時間は短い方だし、噂を聞きつけたクラブ仲間から来る連絡も怠かったので、スマホの電源は切りっぱなしだった。
全てをシャットアウトしてひたすら寝て過ごしていたのだが、今朝、何の気なしに電源を入れてみたところ、睦月からのメッセージが数件入っているのに気が付いた。
『最近、姿見ないけど元気?』から始まって、様子を伺うメッセージが遠慮がちに間を置きながらが並ぶ。その気遣いが、全く睦月らしい。
一番下に表示されたメッセージを当日の日付で受け取ったのは、何かの奇跡としか思えない。
『未咲、今日会える?人目とかイヤかもだから、駅の高架下の所で夜中の二時くらいに待ってる。返事くれなくても、待ってるから』
引き籠っている間も睦月の事は勿論気になっていたし、会いたくないと言ったら嘘になる。
ヘタレな俺は、単に怖かったのだ。
写真の件は、晒されたのが自分だけだったから良かったものの、このドス黒い流れの中で睦月を汚す訳にはいかなかった。
だから、どこかひっ迫した睦月のメッセージに背中を押されなければ、その愛おしい姿を見る事は出来なかっただろう。
「俺、電源切っちゃってて。...心配かけて悪かった」
そんな事はいいとばかりに睦月が頭を強く振る。
「僕こそゴメン。未咲、一人になりたいんだろうなと思ったけど、どうしても心配で。何度もメッセージ送っちゃった」
「――俺の事、何か聞いた?」
睦月は少し言い淀んだ後、意を決した様に口を開いた。
「地元で未咲の姿を見かけなくなって、メッセージも未読のままだったから。――僕、こっそりクラブに行ってみたんだ。そしたらオーナーさんが居て、どうせ耳に入るだろうからって教えてくれた。なんか...未咲の写真が学校でばら撒かれたって。ネットでも出回ってるから、見つけたら消去するから教えてって言われて...」
「コタさんから聞いたんだ。...画像見た?」
睦月の顔が苦し気にくしゃりと歪む。
アレを睦月が目にしたと思うだけで、胃の中のものを全部戻してしまいそうになる。が、真摯に俺を想ってくれる睦月に対して、聞かない訳にはいかなかった。
「見た...」
「どうだった?って、言うのも変――」
軽くかわそうとした言葉が、喉で詰まって声にならない。突然、涙を流す俺を見て、睦月がオロオロしているのが分かる。が、苦しくて顔を上げる事が出来ない。
あの写真事件からずっと感情を封印していた俺は、睦月の前で初めて泣いた。
「未咲、ごめんね。辛い事、思い出させちゃって」
睦月の声が優しく降り注ぐ。決壊した俺は、甘える様にただ泣きじゃくる。
「俺...ゴメン...」
「なんで?未咲は悪くないよ」
「だって、あんな汚いモン、お前に見せる事になって。ほんとゴメン...」
「違う、未咲は綺麗だったよ。凄く、凄く綺麗だった。未咲、聞いて。汚いのは...本当に汚いのは僕なんだ」
「お前、何言って――」
突然、見えない方向に話しが進んだ様に思い、俯いていた顔を上げる。と、睦月の強い視線にぶつかった。
「睦月?今日、会いたいってなんで...?」
悪い予感に声が震える。
「未咲」
――だめだ、聞きたくない。
「話たい事があるんだ」
――いやだ、言わないでくれ
「僕たち、会うの今日で最後にしよう。それを言いに来た」
雨の音が止んだ様な気がした。
たった今、睦月から発せられた言葉を、俺の全身が拒絶している。
「...嫌だって言ったら?」
縋る資格なんて無い事は分かっている。実際、睦月を巻き込みたくなくて、連絡を絶っていたのは俺の方だ。
けれど、最後という事が――金輪際会えなくなるという事が、どうしても俺には受け入れられなかった。
「未咲、ごめん。こうするしか無いんだよ」
「なんで――いや、悪いのは俺だけど。もう少し待ってくれないか?お前の事、傷つけないし、変な奴らにも手出させたりしないから」
「そういうんじゃない」
初めて見せる睦月の強い意志に、一瞬たじろぐ。
「やっぱり、こんな俺に嫌気がさした?」
「それは、違うッ」
「じゃあ、なんで?睦月、理由を教えて」
睦月の身体が苦し気に小さく震える。追い詰めている事は分かっているが、食い下がるのを止める事ができない。
「未咲がこんな目にあったのは、僕のせいだ」
「違うよ。それは、俺がグダグダしてたから」
「いや、僕のせいなんだ。それに――」
「それに?」
「こんな汚い僕は、未咲に触って貰える資格は無いよ」
睦月に何を言われているのか分からないまま、思わずその身体を抱き寄せる。が、腕の中の睦月は、頑なに俺に委ねる事を拒んだ。
「俺に触られんの嫌?」
「違う」
イヤイヤするように首を振る睦月の目から、涙が溢れ出す。
「大好きだよ、未咲。独りぼっちだった僕を見つけてくれた未咲を、嫌いになる訳ない」
「だったら――」
身体が強く押し返される。
俺の腕から逃れた睦月は、悲し気に笑いながら静かに後ずさる。
「未咲、有難う。バイバイ」
「なぁ、なんでだよッ、せめて理由くらい――」
「未咲、もう無理なんだ。これ以上、僕に関わらないで」
――ダメだ。行かないでくれ。
振り切る様に向けられた背中が、俺に向かって拒絶を叫ぶ。
「お願いだから何か言ってくれよ、睦月ッ。俺がした事は謝るから」
「未咲は何も悪くないってば」
「だったら――」
「触るなッッ!!!」
触れようとした手に鋭い痛みが走る。
緩くはめていた腕時計が外れて宙に飛ぶ。
次の瞬間、カシャンという儚い音と共に時計は地面に打ち付けられた。
飛び散った文字盤のガラスが、街灯の明かりを受けて小さく光った。
雨の音が戻ってくる。
去って行く睦月の背中を追いかける術が見つからない。
それでも惨めに手を伸ばした瞬間、トスっという心もとない衝撃と共に、俺の指先があっけなく空を切った。
――なんだ、これ?
背中が焼ける様に熱い。
何かに圧迫されて、上手く呼吸が回らない。
痛みが理解できないまま、身体が異物に浸食されていくのだけが分かる。
腰をヌラヌラと濡らす生暖かい液体が滴り落ち、地面に赤い沼を作りだす。
――ああ、俺の血じゃん。
喧嘩は強い方だったので、俺は自分の血を大量に見た事がなかった。
なんか、スゲェなと呑気に地面を見つめるうちに、背中から刃物で刺された事実にようやく気付く。
「未咲」
粘つく声で名前を呼ぶその主を、俺は良く知っている。
「...東雲か?」
「そうだよ。未咲がまた浮気するかと思って。佐東を張ってたんだ。全く正解だったよ」
不覚だった。写真の一件で、東雲なりに留飲を下げたのだろうと、俺は勝手に思い込んでいたのだ。
「睦月には、手を出すな」
「さぁ、それは未咲次第じゃない?」
「これ以上、どうしろって...」
「そうだなぁ」
溜める様に背後から囁く東雲が、息を荒げながら俺の耳を噛んだ。
「未咲、久しぶりにセックスしようよ」
「お前、アホか...」
言いながら、視界が徐々に暗くなる。
いつの間にか身体が冷たくなっていて、膝が細かく震えだす。
身体を支えていられず、無残に地面へと崩れ落ちる。
閉じかけた瞼の隙間から、睦月が踵を返して走り寄ってくるのが分かった。
――駄目だ。こっち来んなッ。
声にならない叫びを抱えたまま、抵抗虚しく意識が閉ざされていく。
思い通りにならない身体を持て余す様に、俺は柄にもなく天に祈る。
――神さま、どうか睦月を助けて。
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