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第三十四話
***
二年前の夢から俺が目覚めた場所は、有ろうことか病院のベッドの上だった。
柱に寄り掛かる様にして気を失っていたところを、始発目掛けて駅に向かっていた会社員が発見し、救急車を呼んでくれたという事だ。
「その人、始発に間に合ったんですか?」と看護師さんに聞いてみたが、「さぁ?」と気の無い返事が返って来ただけだった。
これは、搬送された先の病院で真っ先に確認したことだけれど、高架下で発見された俺は普通に服を着ていたらしい。
しかし、幽霊の睦月とセックスしたあの感覚と感動は本物の筈だ。掌に残る湿った肌の質感やヒリつく背中の傷跡。それが、夢だったとは今でも到底信じられない。
果てる直前に睦月が舐めた俺の眼球は、二年前のあの出来事を鮮明に映し出した。
”神さま”なんていう突飛な存在によって、俺と睦月に関する記憶は封印され、事実は捻じ曲げられた。あの時間のあの場所で、はた迷惑なカップルとストーカーによる殺傷事件は、見事に揉み消されたという訳だ。
睦月は、虐めが原因と匂わせる服毒自殺を図り、東雲は、写真をばら撒いた後悔らしきものを遺書に残して自殺未遂――という事になっている。
そんなツメの甘いチープなシナリオに翻弄されていたのは、当事者の俺達だけではない。その場に居合わせた川本さんも一緒だ。
俺の記憶が戻った今、彼女は何を望むのだろうか。
上書きされた記憶でない真実を取り戻し、睦月を救えなかった俺を改めて憎むだろうか。
東雲はどうだろう。お膳立てされた状況でビルの屋上から落下し、今もベッドの上で俺を恨んでいるのだろうか。
これだけ周りを不幸にした挙句に一番大切な睦月を救えず、二年間ものうのうと暮らしていた俺の生きる意味は一体何なのだろう。
自己嫌悪と後悔に苛まれる中、俺はもう一つの決定的な絶望に気が付いていた。
俺に最後の景色を見せた睦月は、恐らくもうこの世界には居ない。高架下に行って確かめた訳では無いが、幽霊の睦月に会って以来、身体に纏わりついていた薄い膜の様な感覚が消えている。
欠けていたパズルのピースが全て嵌るのと引き換えに、この世界から完全に消えた睦月――。
「俺、どうしたらいいんだよ...」
応える相手の居ない宙に向かって、虚しく問いかける。
「未咲くん、入るよ」
病室で一人思考を詰まらせているところへ、笹倉さんが戻ってきた。
応急処置を受け、意識を取り戻した俺が真っ先に連絡したのは家族では無く、笹倉さんだった。仕事を終えて家で寝ていたところを有無を言わず駆けつけてくれた笹倉さんは、その場で入院の手続きを済ませ、医師からの説明も一緒に聞いてくれた。
「まぁ、単なる過労で良かった。検査と様子見で数日の入院になるみたいだけど、折角だからゆっくり休みなよ。ラッキーな事に個室空いてたしさ」
「笹倉さん、すいません。いきなり頼っちゃって。お店も、また休む事になっちゃうし」
「いいって。扱き使っちゃった俺も悪いし」
「そんな...」
恐縮して言い淀む俺の頭を、笹倉さんがポンポンと軽く叩いた。
「嫌だったかもしれないけど、君の家に連絡入れといた」
実家の反応は分かっていた。そして、その事について笹倉さんが俺に気を使っている事も。
「電話、母親出ました?」
「うん...来れないからよろしくって」
「そうですか」
期待も無いので落ち込む訳でも無いが、何となく黙り込んでしまった俺を前に、笹倉さんが困っているのが分かる。何か、言わなくてはと口を開きかけたところで、病室の横開きのドアがガラリと開いた。
「うわっ、ネガな空気が充満してるねー」
失礼極まりない発言をしながら、太々しく入り口に立つ男の姿を見て、思わず小さく声を上げそうになる。
「た...のくら...」
「多野倉さん、でしょ。いちおー年上なんだからさ」
突然現れた多野倉は、ズカズカと病室内に踏み込んで来ると、ベッドにどっかりと腰を降ろした。そして、改めましてとばかりにニンマリと笑って挨拶をする。
「お久しぶり、西之くん」
慣れ慣れしく俺の肩に手を回す多野倉に対し、笹倉さんが警戒心を露わにする。
「あの、未咲くんに何か?彼、この通り具合が悪いんで――」
そこで初めて、多野倉は笹倉さんの存在に気付いた様に目を向けた。
「何?あんた誰?西之くんのお父さん...じゃあ、ないよね」
「――じゃないけど、みたいなモンですッ」
笹倉さんは珍しく声を荒げると、しまったとばかりにバツが悪そうな顔をした。つられてこっちまで照れ臭くなってしまうが、多野倉はそんな俺達を揶揄う様にニヤリと笑う。
「まぁいいや。それなら、俺は西之くんのセフレみたいなモンだ」
「は!?何を――」
発言を撤回させようとするが、「しっ」と口元に人差し指を当てられる。そして、多野倉は耳元で「話があるから」と小さく呟いた。
警戒心は勿論あったが、それ以上に多野倉が言う”話”とやらが気になる。不安を隠さない笹倉さんを宥めつつ、一旦退室して貰う事にする。
「変な事とかされたら、最悪、ナースコール鳴らすんだよ」と念を押して、笹倉さんは扉を閉めた。
多野倉が飽きれた様にフンと鼻を鳴らす。
二人になると途端に空気が気まずくなった気がして「話ってなんですか?」と先を急がせるが、多野倉は「まぁ、ゆっくりやろうよ」とベッドに這い上がってきた。
「ねぇ、未咲くん。この前の続きしない?今度は優しくするからさ」
病衣の胸元にスルリと手が滑り込み、指で乳首を弾かれる。
「ちょっ、何やってんだよッ」
「何って、気持ちい事してあげてるんじゃない」
抵抗する俺に構う事なく、多野倉は病衣の紐を解いて、そのまま胸に顔を埋めた。露わになった肌が、既に熱くなっている多野倉の舌を直に受け、思わず身体がビクリと小さく跳ねる。
「この間より敏感だね。セックスしたばっか?」
一瞬、睦月とのセックスが頭を過り、夢と現実の境目が分からなくなる。そもそもあんなリアルな質感の夢が存在するものなのか――。
「言ったそばから、他の人の事考えないでよ。傷つくなぁ」
多野倉のセックスはねちっこい。首筋から顎にかけて指先で撫でながら、唾液塗れの舌を執拗に這わせてくる。
「も...やめろ」
上がる息に混ざって声が漏れない様に、自身の指に歯を当てる。その合間も多野倉の舌先がチロチロと乳首を掠める様に行き来し、こんな場所でこんな奴に焦らされる事に恥ずかしさと苛立ちが募る。そんな気持ちに構わず反応してしまう俺の股間に、多野倉が抜け目なく手を伸ばした。
「――ッ、人...呼ぶぞ」
「半勃ちのくせに何言ってんの。それとも、西之くんと俺がエロい事してんの、みんなに見てもらう?」
一瞬、東雲との写真が、目の前にばら撒かれた様な気がした。
多野倉の一言で急速に頭が冷えた俺は、ガバリと体を起こすと、力づくで形勢逆転を図る。唐突にマウントを取られた多野倉は、驚いた様に目を見張った。
「西之君、譲ってよ。俺、バリタチだからさ」
「うるせぇなッ、俺もだよッ。つか、ヤらねぇよッッ」
この期に及んで、行為を続けようとする多野倉の右頬に、拳を食らわせる。
「――ッッ!!!」
ベッドで痛みに身を捩る多野倉の様子を、俺は何となくスッキリした気持ちで見つめた。たまには身体を動かすのも良いかもしれないな、と場違いに健全な事を考えてみる。
が、大の男が涙目で頬を抑える姿を前にして、少し可哀そうな気にもなった。少しだが。
思えば、多野倉とは全然親しくも無いくせに、色んな意味でお互い身体を張っている気がする。全く可笑しな話だ。
「ちょっと、人殴っといて何笑ってんの?西之君」
「すいません、やり過ぎました。つか、今になって多野倉さんに親近感が湧きました」
「――何、ワケ分かんない事言ってんだよ」
笹倉さんが買っておいてくれた水のペットボトルを渡してやると、多野倉は遠慮なくゴクゴクと飲み、ようやく落ち着いた様に顔を上げた。
「結局、何しに来たんですか?そもそも何で俺が運ばれた事、知ってるんですか?」
多野倉は、不思議がる俺の様子を見て、自身が優位に立っていると判断したらしい。再び不遜な態度を復活させ、話しを始める。
「倒れてる西之くん見つけて、救急車呼んでくれた人いたでしょ」
話が唐突に今朝の事に及び、一瞬面食らう。
「あ、はい。ちゃんとお礼を言いたかったんですけど」
「伝えておくよ」
「は?」
「その人、俺のセフレだから」
多野倉が、どうだとばかりにニヤリと笑う。
「いや、参ったよ。今朝っていうか昨日の夜から別のセフレとホテルに居たんだけどさ。俺、やりヤリ過ぎちゃったみたいで、そいつ腰立たなくなっちゃって。仕事あるから出なきゃなんないんだけど、流石に放置できないなと思ってね。そんで、西之くん助けてくれたセフレの方に連絡して、介抱て貰う事にしたんだけどね」
「あんた、最低だな」
「西之君も大概でしょ、どうせ」
言い返したいのは山々だったが、今はこの話の行く先が気になる。
「で、律儀にホテルまで来てくれたんだよ、セフレ一号が。あ、今のところ俺のセフレ、五号までいるんだけどね」
「どうでもいいです」
「あっそ。まぁいいや。そんで、その一号が来るの若干遅かったから理由聞いたらさ、地元の駅ですげーキレイな男の子拾ったって言うんだよ。興味あるから特徴とか話させてるうちに、あれ?と思って。しかも、そいつの地元の駅って――」
そこまで言うと、多野倉はシャツのポケットから名刺を出してヒラヒラさせた。奪う様にして名刺に目を落とすと、まんまと俺の店の名刺だった。
「渡した覚えないんですけど」
怒りを隠さず睨みつけるが、多野倉は飄々と「ホテルで会った時、隙をみて失敬しておいた」と言い放った。
「一号は優秀だからさ、救急車が来た時に西之君の搬送先の病院を聞いてたんだよね。そんで、一か八か来てみたら、ビンゴ」
「けど、入院患者の情報なんか、病院は簡単に教えてくれないですよね」
東雲の病院での事を思い出して問い質してみるが、「何事も正面突破で上手く行く訳ないじゃん」と至極最もな返しを受けた。
やはり、多野倉は一筋縄ではいかない。
「――そうまでしてここに来たのって、単なる興味本位ですか?」
「そこまで暇じゃないよ。まぁ、あわよくば西之くんがセックスさせてくれるかなっていう期待は勿論あったけどね」
「......」
不信感と苛立ちを募らせる俺を見て、多野倉はふと困った様な顔をして笑った。
「俺さ、こんなんだけど結構義理堅いし、人情派だったりするんだぜ」
「――どういう意味ですか?」
「こういう意味だよ」
多野倉は鞄の中を探って細長い箱を取り出すと、俺の掌にポンと乗せた。
「あの――」
「開けてみ?」
流れが見えないが、多野倉の愉快そうな――だけど何だか慈悲深い声に促されるようにして、渡された箱を開けた。
一瞬、言葉を失う。
箱の中にうやうやしく鎮座していたのは、二年前のあの日、睦月との別れ話の最中に手首から擦り抜けて地面に叩きつけられたあの時計だった。
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