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第三十六話
――お別れってなんで...。
薄々気が付いていた事ではあったが、覚悟が全く追いつかない。
情けなく縋りつこうにも、肝心な睦月の姿は見えないままだ。
『未咲、仕方がないんだ。思い出したでしょ?僕は、未咲を”神さま”に生かして貰う代わりに、未咲の記憶から消える事を選んだ。そして、実態の無い地縛霊になったんだ。だけど、未咲の記憶が戻った今、”神さま”との約束は反故になりつつあるんだよ』
――だったら、俺が死ねばいいことだ。
『滅多な事言わないでよ。それじゃ、僕が未咲の命を望んだ意味がなくなっちゃうじゃない。記憶を未咲に返したのは僕自身だ。だからペナルティも僕だけで十分なんだよ』
――ちがうッ。そもそも俺が睦月を知りたいと思わなければ、睦月に触れたいと思わなければ、こんな事には...。
そう言いながら、俺は自分にそんな制御が効かなかったであろう事を十分に理解している。
高架下で出会った幽霊の睦月。そのあまりの美しさに一目惚れした、などと当初は思っていた。だけど、それは違った。
確かに、睦月は美しい。特に幽霊の姿の妖艶な輝きは、目を見張る程だ。
だけど、俺の心を惹きつけたのは、二年間に流れていた俺達の時間に他ならない。それを封印し続けるなんて、土台無理な話だったんだ。
『触れたいと思ったのは、未咲だけじゃないよ。そんなの僕だって一緒だ』
悲し気な睦月の吐息が空気を僅かに揺らす。
『最初は、幽霊になって気づかれなくたって、生きている未咲を見守る事が出来たら十分だったんだ。だけど...欲が出た」
――欲?
『そう、欲』
姿の見えない睦月が恥ずかしそうに笑う。
『家から出る様になった未咲を高架下から眺める事が出来て、僕は本当に幸せだった。学校は辞めちゃったみたいだけど、毎日同じ時間に僕の目の前を行き来する未咲。ちゃんと通うべき場所があって生きてるんだなって、それだけで心があたたかくなった。――幽霊なのに、変だよね』
そんな事ない、と首を振りたいが、身体は拘束されたままだ。
多分、睦月がここに留まって言葉を重ねるのは、相当な集中力が要る事なのだろう。俺が動く事で空気が震える、それだけで消し飛んでしまう程の。
『けどね、毎日未咲を見ているうちに、だんだんと苦しくなっていくんだ。あぁ、いつも少しだけ眠そうなあの眼が僕に向けられたら、深く掠れたあの声で名前を呼んでくれたら、節くれだったあの長い指が頬に触れて優しくキスしてくれたら...なんてね。最後だから、恥ずかしい事言ってるけどね』
睦月の告白と”最後だから”という言葉が、心臓を捩抉る。
俺が記憶を失ってボンヤリと暮らしている間、睦月はどれだけの想いを抱えながら、あの高架下に独りで立っていたのだろうか。
『ダメだと頭では分かってたんだけど、僕は未咲を呼ぶ様になった。最初は全然無視されちゃってさ、完全に世界が行き違っている感じだった。だけどね、ある時、未咲が僕に気が付いたんだよ。勿論、二年前の僕の事は知らずにだけどね』
――それどこどか、最初は睦月が幽霊なのも知らなかったくらいだ。
『そうだよね。けど、幽霊だって分かった後も、未咲は僕を好きになってくれた。それどころか、僕に触れたいと言って、近づいてくれた』
じんわりと記憶が蘇る。俺は、睦月に二回、恋をした事になる。
それは、幽霊なんて関係ないと思わせるくらい強烈な恋心で、あの頃は仕事帰りに高架下に向かう事だけが俺の生きがいだった。
『嬉しかった。未咲が僕に近づくために時間を使って色んな人に会って、僕のために本気で怒って泣いてくれて。僕の事を知っていくのに合わせて、声が届いて、会話が出来て、触れる事だって出来る様になった。だけど――』
――だけど?
『それで、満足してたら良かった。だけど、やっぱり無理だった』
頭に響く睦月の声が、徐々に涙で掠れる。
気が付くと、動けない身体のまま、俺の頬にも静かに涙の筋が伝っていた。
『一度だけでいいから、未咲に抱いて欲しくなった。だって、二年前も叶わなかった夢だよ。――あの頃、僕は東雲が羨ましかった。未咲は、僕の事を好きだと言ってくれたけど、東雲の事があって手を出してはくれなかった。セフレなんて山ほど居たくせにさ』
――睦月の口からセフレとか言わないでくれよ。あの状態で、俺は睦月に受け入れて貰う事なんて、とてもじゃないけど出来なかったんだ。
『僕だって大概だよ。本意じゃないにしても、色んな人に身体を好きにさせてきたんだから』
それだって、俺が関わっての事でもある。
東雲の監禁を解こうとして、暗い流れに呑み込まれていった睦月。
あげく、俺のために命や自身の生前の存在まで断ち切られ、今なお、世界の果てに放り出されようとしている。
――睦月...お前、なんでそうしてまで俺に...。
『だって、そんなの――』
睦月が、何を今更といった様に、だけどそっと優しく微笑むのが分かった。
『夜中にあのバス停で、独りぼっちだった僕を見つけてくれた。それ以来、僕の世界は未咲だけだ。それは二年前も今も変わらない。僕の全てが未咲の為に在る事が出来るなら、もうそれ以上は無いよ』
愛おしいという言葉じゃ足りない。
だけど、それを埋めるために、睦月の身体に触れる事は最早敵わない。
行き場を無くした葛藤と寂寥が、ただただ激しく心に渦巻く。
『未咲、最後に僕を抱いてくれてありがとう。こうなる事は分かっていたのに、記憶を返す事が未咲をまた苦しめる事は分かっていたのに、僕は欲望に抗う事が出来なかった。けど、後悔はしていないんだ』
頭に響く声が、徐々に弱く遠くなっていく。
零れる涙をそのままに、動かない身体同様、俺には流れを止める事が出来ない。まるで、二年前のあの日の様に。
『圧し掛かる未咲の体重も、熱く火照った皮膚の感触も、僕の中で脈打って突き上げてくる愛しさも、絶対に忘れたりしない。身体なんか無くたって、深く刻みつけられた繋がりを僕は離さずに持っていくよ』
――睦月、お前は何回、俺を置いて行くんだよ。
『ごめんね、未咲。だけど、いつだって僕の願いは、未咲だけなんだ』
――睦月ッッ!
消えゆく気配に、俺は縋る様に叫ぶ。
応える声はもう聞こえない。それでも、一か八かに俺は賭ける。
――睦月ッ、俺、絶対にお前の事見つけるから。幽霊でも何でも、何度でも、何度でも......俺、見つけるからッ。だから、待ってろ。絶対に俺の事、信じて待ってろッッ!
最後の言葉が届いたかは分からない。だけど、身体の拘束が解けたのと同時に、睦月が微かに何かを言った様な気がした。
そして俺の意識は遠く深く沈んでいった。
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