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第三十七話
「あ、起きた!」
目を開けて最初に飛び込んで来たのは、川本さんの安堵した笑顔だった。
思考は、霧に霞んだみたいに白くぼやけている。
川本さんが鳴らしたナースコールで、病室に飛び込んできた医師や看護師数名がわらわらとベッドを取り囲む。その後ろに半泣きの笹倉さんと、支える様に背後に控える草太くんの姿も見えた。
「西之さん、分かりますか?」
ペンライトを当てて、両目を交互に覗きながら医師が尋ねる。
「あ......はい」
喉がねとついて声が上手く出せない。
状態を診るまで水を飲むのは我慢してくださいと、看護師さんが口の中を濡れた綿棒で浸してくれた。そんな風にされていると、意識の無いままベッドに横たわる東雲を思い出す。
――あれから、どうしただろうか。東雲は未だこちら側に居るのだろうか...。
血圧やら意識障害検査やらを一通り行うと、医師はようやく状況について説明をしてくれた。
どうやら俺は、三日間ほど昏睡状態に陥っていたらしい。朝、検温に来た看護師が異変に気付き、すぐさま脳波やらCTやらの検査をしたそうだが特に異常は無く、だけど全く目を覚まさない俺に病院も手を焼いたという事だ。
昏睡に陥った原因も、突然目を覚ました切っ掛けも、結局は分からないため、何となくストレスのせいではと無難な診断が下された。
勿論、俺には理由は分かっていた。
睦月との最後の交信により、相当な体力と気力を絞り取られたのだろう。
幽霊の睦月と会い始めて以来、俺の体力は着実に落ちていった。ダメ押しで睦月と交わった事で、既に限界に達していたのかもしれない。
『あんた、あの子に関わり過ぎると、死ぬ事になるよ』いつか占い師のバァさんに言われた言葉が頭を過る。
別にそれでも良かった。こうなってまで、俺が生きる理由なんて――。
ふと、サイドテーブルの上を見ると、多野倉が持ってきた時計の箱が空になっていた。
睦月が持って行ったのだろうか。
聞き取れなかった別れ際の言葉が、ふと気にかかった。
「未咲くん、良かった」
医師が病室を去ると、緊張が解けたみたいに笹倉さんが泣き出した。それを、草太くんと川本さんが困った様な笑顔で見守る。
鼻を啜り上げて床にへたり込む笹倉さんを見ながら、俺は、どれだけこの人に心配かけたら気が済むのかと、申し訳ない気持ちで一杯になる。
「笹倉さん、ゴメン」
「いいんだ。未咲くんが無事だったなら、全然いい。俺こそ、色々気付いてあげられなくて、悪かった」
笹倉さんが悪い事なんか一つも無い。
引き籠った挙句、学校も辞めてしまったどうしようもない俺に居場所を与えてくれたのが笹倉さんだ。それなのに、俺はまた、生きる意味を無くして途方に暮れている。
『何度でも見つける』なんて言ったけれど、完全にこの世から気配を無くした睦月を探し出す手立てなんて、さらさら思いつかなかった。
笹倉さんに手を握られながら、半ば絶望でボンヤリとしてしまう。
そんな俺に向かって、川本さんが不意に強い言葉を投げた。
「西之さん、落ち込んでないで、いい加減決着つけません?」
「......決着?」
「そう、佐東くんとの決着です」
「ちょっと、そういうのもう止めてよ。また未咲くんが倒れたりしたら――」
慌てて笹倉さんが間に入るが、川本さんが怯む様子は無い。更に、好きにさせてあげてとばかりに、草太くんが父親を取り成す。
川本さんと草太くんの間には、いつの間にか強い信頼関係が結ばれていたらしい。
「西之さんが電話で言ってた、『違うものを見せられてるんじゃないか』ってアレ、私もそうなんだと思います」
確信に満ちた口調で、川本さんが続ける。
「あれから色々考えたんだけど、どうも記憶が混濁してるんです。佐東くんは自宅で睡眠薬を大量に飲んで死んだ――そう頭では理解している筈なのに、あの高架下に花を備えに行く私がいるんです。何か、本能的と言うか、衝動的というか、それが正しい事の様な気がして...」
俺が睦月に返された記憶の風景――。
あの事実を共有する事で川本さんが受ける衝撃を思うと、躊躇する気持ちが先に立つ。だけど、既に歪みが入った記憶にこれ以上蓋を被せるのは、もう無理な気がした。
それに、こうして俺を心配して集まってくれている人達に対しても、事実を伏せるのは不誠実だ。
「本当に突飛な話なんだけど、聞いて欲しいんだ――」
川本さん、笹倉さん、草太くんを前に、意を決してこれまでの経緯と俺に戻った記憶の話しを始める。
幽霊になった睦月への恋、それを成就させるために、川本さん含め様々な人を介して睦月を知っていった事、その流れで、予想外の形により東雲との再会を果たした事――。
更に、東雲との再会が呼び水になって記憶が揺らぎ、睦月に真実の光景を見せられた事。川本さんの手前、セックスについては胡麻化したが、睦月と交わる事を引き換えに取り戻したあの日の記憶により、今現在、睦月の存在がこの世から完全に消滅しつつある事実も全て話した。
あまり表情を変えない川本さんだが、流石に睦月の死の真相のくだりでは、小さく声を上げていた。
「信じて貰えるとは思って無いんで、俺の妄想で片付けてくれても別にいい。ただ、これが俺の言える事の全てだから...」
笹倉さんと草太くんは、どう受け取って良いのか分からない様子で互いに顔を見合わせている。
話を聞き終えた川本さんは、暫く目を閉じて黙っていたが、不意に大きく呼吸を吐いた。そして、徐に口を開く。
「残念ながら、西之さんの話を聞いても、私の記憶は閉じられたままみたいです。西之さんが刺された場面に居合わせた筈なのに、その光景は私の目には戻ってきません」
「そうか...」
しかし、川本さんの記憶が戻らなかった事に、俺は残念というよりもホッとした気持ちを抱いた。あんな凄惨な場面を思い出し、抱えて生きる必要は無い。
「けど、私は西之さんの話を信じます。だって――」
言い淀んだ川本さんは、次の瞬間、柔らかい笑顔を見せる。
「だって、代わりに死んじゃうなんて佐東くんらし過ぎます」
その言葉で、俺の涙腺は決壊した。
そうだ。睦月は言ってくれた。
全ては俺の為だと、睦月の願いは俺だけだと――。
「ねぇ、西之さん、佐東くんは本当にもう取り戻せないんでしょうか」
「分かんね...諦めるつもりは無いけど、俺、どうやって睦月を見つけていいか、全然思いつかない...」
グズグズと鼻を啜る情けない俺とは裏腹に、川本さんは神妙に考えを進める。
「ねぇ、西之さん。西之さんが刺された瞬間、居合わせた私に”神さま”
とやらが乗り移ったんですよね」
「ああ。”神さま”は物理的な形を持たないから『会話がしやすい様に一時的に川本さんの身体を借りている』って言ってた」
話が何処に進むのか分からないまま、取り敢えず確認に応じる。
「”神さま”はあの高架下辺りを管轄してる、とも言ってたんですよね」
「まぁ、意味は分かんないけど、縄張りみたいなモンがあるのかもな」
「で、あれば――」
川本さんが確信を持って身を乗り出した。そして、その瞳は小さな希望の光を宿している。
「あの場所に今も”神さま”は居るし、誰かの身体に乗り移れば、会話が出来る筈です」
「あっ――」
頭の中で再び、あの言葉が鳴り響く。
『あんた、あの子に関わり過ぎると、死ぬ事になるよ』
思わず、川本さんと声を合わせる。
「占い師のバァさん!」
「占い師のバァさん!」
話の流れについて行けずにポカンとする笹倉さんと草太くんを他所に、俺達は高架下に行く算段を立てる。
と、ベッドサイドに置きっぱなしにしていた、携帯がメッセージの受信を告げた。
通知は切っている筈なのに――。
不審に思い、携帯を取り上げた瞬間、思わず声を上げそうになる。
メッセージの送信元は、植物状態でベッドに横たわっている筈の東雲になっていた。
後ろから画面を覗き込んだ川本さんが、平坦な声でつぶやく。
「なんだか、世界が壊れ始めたみたい......」
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