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第四十話
久しぶりの実家のリビングは一瞬余所余所しく感じたが、嗅ぎ慣れたその匂いに身体の方が先に馴染んだ。
正月も帰らなかったのに現金なものだ。確か、大晦日はクラブに行く元気も無かったので、『真夜中』で常連客達と朝まで飲んでたような――。
「母さん居ないの?」
人気のない空気を探る様に、天井を見上げる。
「さぁ?どっか出掛けたんじゃないか?」
興味なさげに冷蔵庫を開ける兄貴の背後で、ダイニングテーブルに置かれたメモがひらりと床に落ちる。
思わず拾い上げて目に入った文字は『萌香さんと一緒にマンションの内見に行ってきます』と、書かれていた。
「――兄貴、結婚すんだって?萌香って相手の子?家出んの?」
冷蔵庫の中身を物色してた兄貴は、苦虫を噛み潰した様な顔で振り返る。
「何、質問攻めにしてんだよ。お前、俺に興味ないだろ」
「まぁ、そうなんだけど。――つか、何やってんの?」
キッチンでフラフラする兄貴を不審に思い、様子を見に歩み寄る。どうやら、彼なりにお茶でも出そうとしていたらしかった。
「いいよ、俺やるから。兄貴、家の事なんか何も出来ないだろ?」
流しの後ろの収納棚を探ると、紅茶の缶もカップもいつもの場所にそのまま存在した。俺が普段使っていた食器も――。
お湯を沸かして紅茶の葉を濃い目に煮出し、氷と共に痛みかけていた桃とオレンジを剥いてグラスに浮かべる。
「お前、凄いな...」
キッチンを追い出された兄貴は、大人しくリビングのソファに座っていた。出してやったフルーツアイスティーを一口飲んで、ボソリと呟く。
「まぁ、バーテンやってるしね」
「駅前の店だろ?笹倉さんとかいう人がオーナーの」
「知ってんの?兄貴こそ、俺に興味ないでしょ」
「ないな。お前が何をして生きてようが、俺の知った事ではない」
――なんなんだ、この人は。
しかし、兄貴はあっという間にアイスティーを飲み干すと、「美味かった」と言ってひっそりと笑った。
そうだった。俺の兄は、良い意味でも悪い意味でも正直な人だった。その正直さに痛いところを突かれる事が多かった俺は、勝手に苛立ちを募らせていたものだ。
「お前、入院してたのか?」
「知ってたんだ。母さんから?まぁ、一度も病院には来なかったけど」
言ってから、親に見舞いに来て欲しかったっぽく聞こえたらハズいなと後悔したが、兄貴はそんな俺を揶揄うでもなく、何故か「悪かったな」と謝ってきた。
「なんで、兄貴が謝るんだよ」
「あの人今、俺の結婚――ていうか、出世の事で頭がいっぱいみたいで。全然余裕無いんだよ」
「そうみたいだな。前に電話した時も、俺に帰って来て欲しくない感じだったし。大事な時期だから、世間体的にも俺を遠ざけたいのは当然でしょ」
「まぁ、それもそうなんだけどな...」と含みのある応えが返ってくる。
「何?他になんかあんの?」
「あの人さ――」
「母さんって呼んでやんなよ」
「本人の前ではちゃんと呼んでるからいいんだよ。あと、呼称は俺の法則に基づくものだから、お前にとやかく言われる筋合いはない」
面倒なので「あっそ」と言って、先を促す。
何だかんだ言って、兄貴と母さんは仲がいい。別に、ネガティブな法則ではないのだろう。
「あの人、お前がゲイなのと俺が選択しようとしてる専門科の事を、何か変な風に捉えてるみたいなんだよな」
思わぬ方に話が進み、一瞬虚を突かれる。
「は?俺の恋愛対象と兄貴の仕事関係なくね?つか、兄貴って何科の医者になんの?」
そこで、兄貴は珍しく言い淀んだ。暫く、あーとかうーとか口の中で転がした挙句、最後は彼らしくきっぱりと言い放った。
「泌尿器科志望」
「は――?」
一拍置くと、俺達は互いに顔を見合わせて爆笑した。兄貴も、珍しく声を上げて笑っている。
歳は離れてはいるが、俺が小さかった頃は兄貴が子守半分に遊んでくれた。その頃は特にわだかまりもなく、こんな風に二人で笑っていた様な気がする。
「俺がゲイなのと関係ねーじゃん」
「まぁ、でも一理無くはないぞ」
兄貴は眼鏡を外して涙を拭いながら、続ける。
「お前、どっちだ?男役か?女役か?」
「なんだよそれ。兄弟でそういう話したくないんだけど」
しかし、兄貴が下らない揶揄いでこんな事を聞いてくる訳はない。
通じるかな?と思いつつ「タチ専だけど」と応えると、意外にもそうかと頷いた。
「ちゃんとゴムしろよ」
「医者として?」
「医者として。雑菌入るとシャレにならんぞ」
「なんだよそれ」
真面目なのか天然なのか分からない兄貴の発言に、俺は小さく鼻で笑う。そして、家を出てからずっと思っていた事を口にする。
「兄貴、ごめんな」
「...怪我の事か?」
こういう時「何が?」とか、すっとぼけない所が兄貴らしい。
「手、大丈夫なの?俺、喧嘩した時、強く殴っちゃったから...」
そうなのだ。俺が引き籠って悶々としていた頃、同じく兄貴も国家試験前で張り詰めていた。そんな一触即発の空気感の中、俺達はつまらない言い争いをした。もう、何が原因だか忘れてしまったくらいの。
写真バラ撒き事件で微妙にインポだった俺は、しかし性欲だけはガッツリ溜め込んでいたし、外に出ない分、体力も有り余っていた。
そのはけ口という訳では無かったが、気が付いた時には先に手が出ていた。
俺に跳ね飛ばされた兄貴は、背後の戸棚に嵌め込まれたガラスに、その右手を突っ込んだ。
割れたガラス片は、兄貴の手の神経を僅かに霞めた。
国家試験は難なくクリアしたし、リハビリでほぼ完治はしたものの、俺の罪悪感が消える事は無かった。家を出て以来正月も帰らなかったのは、家族から疎まれていた事もあるが、兄貴に顔向け出来なかったというのが大きい。
「兄貴さ、実は心臓外科とか、もっと花形が良かったりしないの?」
「お前、変な医療ドラマでも観たのか?」
決死の俺の切り出しに、兄貴は馬鹿にした様にふふんと笑った。こっちの気も知らないでとイラっとくる。
「だからさッ、俺が怪我させなかったらもっとなんか――」
勢い込んで言いかけた俺の頭を、兄貴がポンポンと叩いた。意味が分からず、毒気を抜かれる。
「未咲」
「...なに?」
「有難うな」
「は?」
引き続き、意図が読めない。だが、そんな俺の不可解な表情を楽しむかの様に、そして妙にスッキリした様子で兄貴は続ける。
「俺さ、別に医者になりたかった訳じゃないし、そもそも勉強なんか好きじゃないんだよ。だから、野心も特に無いし、結婚も周りが言うならって感じで決めただけなんだ」
「――え?」
意外な告白に、思わずポカンと口を開けてしまう。
「下手に踏み込まれるくらいなら、言う事聞いとく方が俺の中の秩序が保たれるっていうか。まぁ、結局は窮屈なのが好きなんだな」
「で...なんで俺に有難う?」
「未咲は意外と自己評価が低いけど、いい意味でも悪い意味でも光が集まるのはお前の方だ。その分、俺は不自由な振りをしてぬくぬくと生きてこられた。俺は、そんな生き方が合ってるし、気に入ってるんだよ」
「......」
「だから、お前がそんなに気に病む事はない」
俯く俺の頭を、子供の時の様に兄貴は暫く撫でていた。
そして、不意に時計を見て「そろそろ、帰ってくるから行け」と言った。
――なんだ、最初から母さんの行き先も帰宅時間も把握してたんじゃないか。
「見舞いには来なかったかもしれないけど、あの人なりに笹倉さんに電話してお前の容体聞いたりしてたから。大丈夫だ」
何が大丈夫なのかは分からなかったが、俺は素直にウンウンと頷く。
玄関先で、兄貴が思い出した様に「ちょっと待ってろ」と言って、自室へと続く階段を上がっていった。
母さんと鉢合わせしたくないなとソワソワ待っていると、兄貴は存外早く戻って来た。その手の中に、あろう事か睦月が持って行ったと思われるあの時計を乗せて――。
「これ...」
思わず声が震える。
「お前のだ。壊してそのままにしてただろ?直しておいてやったから、持って行け」
「なん...で?」
受け取りながら訪ねると、そこで兄貴も初めて不思議に思った様だった。
「何でか分からないが、そうしなきゃならない気がしてな」
門まで見送りに来てくれた兄貴が「流石に結婚式は顔出せよ」と言った。が、時計を受け取った時点で、俺にはその事が叶わない予感があった。
お茶を濁す言葉を吐くと、堪えきれず泣いてしまいそうだ。可能な限り平坦な笑顔で手を振り、生まれ育った実家に背中を向ける。
「...未咲?」
背後に、不審がる兄貴の様子を感じる。
「未咲ッ、お前どうした?」
兄貴に似合わない切羽詰まった叫びを振り切る様に、俺は実家の門を抜けて、走り出す。
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