第四十一話

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第四十一話

 その夜の『真夜中』は、何だか不思議な空気に包まれていた。  実家から自分のアパートに戻った俺は、流石に落ち込んだ。  出した結論を覆す事を想っては止め、ループする事三十回。結局、もと居た場所に帰結する。  ――でも、仕方ない。睦月が俺を呼んでるんだ。  心を決めて、職場に向かった。閉店後は、川本さんと草太くんと共に、占い師のバァさんに会いに行く事になっている。  そこで起こる事を何となく予想している俺は、「一人で行くから」と言ったが、川本さんは頑として聞かなかった。出会った頃の頑固さは健在だ。    特に誰かの誕生日でも、花火でも、ボジョレーでも無いが、ド平日にも関わらず『真夜中』には珍しく客が絶えなかった。しかも見知った顔ばかり。  もともと解放的な店なので、初見の客も古参につられてあっという間に常連客になってしまう。そんな人たちが大集合した感じで、店は文字通り真夜中まで盛り上がった。  最初に睦月の事を相談した三木さんと橘さんは、今日も並んでスツールに腰掛けている。オカルト話にはすっかり飽きた様で、最近二人で嵌っているらしいボルダリングの話題に夢中だ。  途中から店に現れた川本さんと草太くんも、客の奢りのソフトドリンクを飲みながら、楽しそうに笑っていた。  それは何だかグッとくる光景で、俺はこのシーンを絶対に忘れないと心に誓う。例え、ここに居るみんなの記憶から俺が消え去ってしまおうとも。  ラーメンでシメて帰ると言って最後の客が店を出た時、時計は既に二十七時の手前を指していた。兄貴が修理してくれたあの時計だ。  「未咲くん、もうあがっていいよ。片付けは俺だけでやるからさ」  食洗器に並べようと手に取ったグラスを、笹倉さんが横からそっと奪う。  「けど、今日洗い物多いし。俺、ラストまでやってきますよ」  グラスを奪い返そうとする俺に、笹倉さんが目配せする。その先には、眠そうに目を擦る川本さんと、彼女に付き添う草太くん。  「二人と約束してるんでしょ。待たせちゃ可哀そうだし」  そう言われちゃうと仕方がない。申し訳ない気持ちで、俺は「じゃあ...スイマセン」と言ってサロンエプロンを外す。    川本さんと草太くんと連れ立って店を出る時、笹倉さんが珍しく戸口まで見送りに出て来た。  「ねぇ、未咲くん」  想いが強い分、サクッと別れたかったのだが、そうはいかないらしい。  自分の名前を呼ぶ笹倉さんの声色で、あぁ、この人は何となく分かってるんだな、と俺は理解した。  「――寂しいよ」  幾つかの言葉を口の中で転がした挙句、笹倉さんはそれだけを言った。  背後で川本さんが鼻を啜るのが分かる。  だけど、俺は俯かずに顔を上げる。だって、何度もループした。それは今日に限った事では無い。二年前から俺の時間は、創られた輪の中を彷徨う様に動かず、そして何処にも行けなかった。  それが、ようやく終わる。  『ちゃんと生きて、幸せに』  東雲が残した最期の言葉。それに応える俺なりのやり方は、一つしかない。  それと、俺にはもうひとつ予感があった。  「笹倉さん、大丈夫です。きっとまた何処かで会えます」  ストレートな希望に、笹倉さんがクシャリと表情を崩し、泣き笑いみたいな顔で言った。  「じゃあ、また困ったらここに来いよ」  ***  「大事なのは、バランスなんだよ」  高架下の占い師のバァさんは、目の前に立つ俺と川本さん、その後ろでオロオロする草太くんを舐め回すように見て言った。  「あの...その前に、あなたが”神さま”って事でいいですか?」  俺は、勝手に話を進めようとする占い師のバァさん、もとい”神さま”の暴走を一旦止める。  話を中断された”神さま”は、不快を露わにしてジロリと俺を睨みつけると、「そうだ」と太々しく頷いた。  「実態が無いというのは存外不便なものなんだ。だから、この居眠りばっかりしてるバァさんの身体を、ちょいちょい拝借している。二年前は、そこのヘンタイ娘の身体を借りたんだがな――」  矛先を向けられ、しかも不名誉な呼称で呼ばれた川本さんは、挑む様な視線を向ける。  だって、彼女が怒る理由はそれだけでは無い。自身をストーカーと名乗るほど固執した睦月の命が失われる肝心な場面で身体を乗っ取られたのだ。相手が神さまであろうと、川本さんにとっては許しがたい事に違いはない。  とは言え、この局面を打開できるのは、目の前で憎々し気な笑みを浮かべる”神さま”だけだ。  俺は、相手のペースに飲まれない様、話を進める。  「あなたの言うバランスを崩した事は、謝ります」  ”神さま”はフンと鼻を鳴らす。  「分かってるんじゃないか。人間共の忌々しいところは、頭で分かってるくせに、あっさりと本能に負けるところだ。特にアホのエロガキはな」  睦月との事をエロガキで片付けられるのは心外だが、反論は控える。  ”神さま”は明らかに腹を立てているのだから。  汚点を隠すべく取り繕った世界に綻びを作ったのは、他ならぬ俺と睦月だ。  俺達は約束を守れなかった。互いに隔てられたレイヤーに存在する事で均衡を保ってきた世界の壁を破り、再び手を取り合い、交わってしまった。  その事で、世界のバランスは少しずつ崩れているのだろう。  東雲のメッセージや時計の存在が、嘘の世界を覆すサインであるかの様に思えてならなかった。  「で、何の用だ?まさか単に謝りに来た訳でもないだろ?」  駆け引きなんて意味の無い事はしない。俺は、ストレートに要求を告げる。  「睦月を取り返しに来ました」  ”神さま”は、そうだと思ったと言わんばかりの醒めたトーンで「あっそ」と言い、交渉のための攻撃態勢に入った。  「分かってると思うが、約束を反故にしたのは佐東睦月だ」  「それは、分かってます」  「なら、簡単だ。私は、約束を破ったあの子を”果て”に飛ばした。それは、受けるべき罰であり、私が管轄しているこの世界のこのエリアの均衡を保つための順当な措置だ。あとは西之美咲、お前さえ過去の事実に囚われなければ、世界はこのままだ。お前は、ここでダラダラと生きて、適当な時が来たら死ねばいい」  そうだ。それをある意味、平穏と言う。  けれど、それと引き換えにしなくてはならないものが俺にはあった。  「迷惑をかけておいて申し訳ないけど、それは無理です」  「どう、無理なんだ?」”神さま”が意地悪く笑う。  「図々しいお願いだとは分かっています。だけど、俺は睦月をこれ以上独りには出来ない。睦月が”果て”とやらに飛ばされたなら、俺もそこに行かせてください」  「ちょっと、西之さんッ」と慌てる川本さんを制す。草太くんに目で合図して、川本さんの手をしっかりと握っていてもらう。  「お前、”果て”に飛ばされる事がどんな意味を持つか分かってるのか?」  射る様な視線が頬を焼く。が、ここで目を逸らしては負けだ。  「ちゃんとは分かってません。だけど、この世界で俺の存在が完全に消える事は何となく理解しています」  「それならば話は早い。そうだ。お前の予想通りだ。西之未咲の存在はこの世界で完全にゼロになる。誰の記憶にも残らない。更に、そんなリスクを背負ってまで佐東睦月を追ったところで、あの子に辿り着ける可能性は恐ろしく低いぞ」  「なんで、そんな意地の悪い事するんですか?あなた神様でしょ?」  怒りで言葉を上手く紡げない川本さんの代わりに、草太くんが抗議に出た。が、「それは心外だ」と顔を歪めながら、”神さま”が返り討ちを食らわせる。  「私は私の管轄に与えられた仕事をしているだけだ。この世とあの世はお前達が考えるよりずっと複雑に出来ている。更に世界は時間と空間のレイヤーが雑多に絡み合っていて、そのバランスを保つ膨大な作業を複数の神が分担してやりくりしてるんだ。多少の犠牲は勘弁してもらいたいものだな」  尚、言い返そうとしてくれる川本さんと草太くんに、もういいと頷く。    「例え可能性が低くても、俺をこの世の果てまで飛ばしてください」  「いいのか?」  向き合う”神さま”は、相変わらず意地悪く笑っていたが、どこか少しだけ楽しそうだった。  「大丈夫です。俺、睦月を見つけるの、結構上手いんですよ」  「そうか」    「では、いくぞ」という”神さま”の全身から光が放たれ始める。あの日、睦月を連れ去ったのと同じ白く眩い光だ。  「西之さん、待って」  光に向かって歩を進める俺を引き留める様に、川本さんがシャツの端を引っ張る。その顔は既に涙でぐしょぐしょに歪んでいた。  「川本さん、ここまで俺を連れて来てくれて有難う。君が居なかったら、俺は睦月に辿り着けなかった」  シャツをしっかりと掴んだまま、川本さんが駄々っ子の様に首を振る。  「私...西之さんが居なくなるために、こんな事した訳じゃないッ」  きつく握りしめた川本さんの細い指を一本ずつ優しく振りほどく。  『未咲ってば、シャツの裾がいっつもだらしなく出ててさ』  睦月の言葉が、頭の中で蘇る。  ――そうだよな、睦月。これからはちゃんとするよ。大事なもののために、迷いなく走って行けるように。  「ねぇ、川本さん。俺、居なくなる訳じゃないよ。睦月を迎えに行くだけだ。アイツ、独りに出来ないでしょ?」  グズる川本さんを草太くんに託す。  「草太くん、川本さんをお願いしていい?それと、笹倉さんの事も大事にしてあげてね。若く見えるけど、いい歳だからさ」  涙を浮かべてウンウンと頷く草太くんの手に、振りほどいた川本さんの手を握らせる。  ひょんな事から巻き込んでしまったが、草太くんがいてくれて良かった。  俺は、この可愛らしいカップルに別れを告げ、光の幕へ向かって歩き出す。  「グズグズするな。間に合わなくなるぞ」  「――時間の制約があるんですか?」  眩い光に目を細めながら、”神さま”に問う。  「残念ながら私の力は微弱でな。ある程度の奇跡に頼らざるを得ない」  「はぁ」  「二十七時は、全ての境界が曖昧になる特別な時間だ。乗っかるに越した事は無いだろ?」  ”神さま”のくせに合理的であり、狡猾さを隠そうともしないその姿勢が何だか可笑しかった。そんな俺の心の中を見透かした神さまが、試す様に言う。  「狡猾さで言えば、佐東睦月の方が一枚上手かもな。しかも、あの子はお前への執着に捕らわれるあまり、自身のあざとさには無頓着だ。そこが、忌々しくてならないがな」  「いいんです。俺、騙されるのも結構上手いんですよ」  ”神さま”は一瞬きょとんとすると、やられたとばかりに屈託ない笑い声を上げた。その笑顔が次第に光の圧力に呑み込まれ、世界との境界を無くしていく。  「――世界は存外だらしなく綻びをきたしているいるものだ。私がこうして地味に辻褄を合わせているみたいにな。無数にある時間と空間のレイヤーの隙間に飛び込む事が出来たなら、またお前の世界はスタートする。ただし、佐東睦月を取り戻せるかは別問題だし、お前が佐東睦月の記憶を持っていられるかも怪しいものだ。それでも行くか?」  愚問だ。覚悟でも諦めでも無い、俺の行く道は決まっている。と言うか、決められていたんだ。  「行きます。睦月が待ってるんで」  そう言って、腕に嵌めた時計を掲げると、”神さま”は「そういう事か」と呆れた様に言った。  光が質量を増す。  視界一杯に白い闇が広がり、高架下の風景も、”神さま”の姿すらもう眩しくて見えない。  自身の輪郭が曖昧になり、世界との接点が消え始める。  この世とあの世を繋ぐ境界線がブツリと途絶え、隙間から発生する強い重力が俺の破片を引き込んでいく。  完全に形を失う寸前に言った「ありがとう」の言葉が、音としてこの世界に残りますように。  そんな風に祈りながら、俺は睦月を求め、無くした両手を遥か虚空の彼方へと伸ばす。                                                
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