第三十五話

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第三十五話

 「佐東が欲しがったんだよね、その時計」  箱からベルト部分を摘まみ上げる指先が、小さく震える。  「これ...なんで、俺のところに持ってきたんですか?」   聞かれて初めて多野倉は、困った様に眉根を寄せる。  「西之くんさ、前に佐東のストーカーとか言ってた女子高生と一緒に俺のとこ来たじゃん?あん時も最後までヤらして貰えなかったんだけど――まぁ、それはいいや。あの女子高生が『あなたが恋人だった佐東くんにプレゼントした時計』って言ったけど、結局は俺、佐東にあげられなかったんだよね」  「なんでですか?」  「佐東も一旦は受け取ったんだけどさ、後から返してきた。自分の金で買いたいって、そう言ってきかなくてさ」  多野倉の話しによると、睦月は俺が持っていたあの時計を欲しがったらしい。それは、地面に叩きつけられた衝撃で割れてしまうような、繊細でレトロなデザインだった。決して高価な品ではないが、たまたま入ったセレクトショップで目について買った、それだけのものだ。  「それ、未咲に似合ってるね」そう言って顔を赤らめた睦月――。  「嵌められたにしても、最初は俺達も恋人っぽい雰囲気というか――少なくとも俺は佐東と付き合うつもりでいたからさ。俺の店で取り扱ってたし、普通にプレゼントしてやりたかったんだよ。けど、佐東は頑なでさ。あいつ、地元の総菜やとかで地味にバイトしてやんの。俺を脅迫した奴らからの分け前ゼロってことはないだろうから、あいつだってちょっとは金が入る算段があった筈なんだよ。けど、その金では買いたくなかったんだろうな」  封印されていた記憶が、ズルリと引き出される。  川本さんと草太くんがアパートに来たときに持ってきてくれたコロッケ――。  「今にして思うとだけどさ、佐東はあの時計に大事な誰かとの繋がりみたいな物を求めてたんじゃないかなって。俺からすると佐東なんて、大人を食いモンにするクソガキでしかないけど、そんなあいつにとって絶対に侵されたくない神聖な部分っていうか――」  「大事な誰か...」  「俺の直観と言うか衝動でしかないんだけど、何となく西之くんの顔が浮かんだんだよね」  そう言うと、多野倉は、呆然と時計に目を落とす俺の頬にキスをしてきた。  「なッッ――何すんだッ」  「隙ありだよ」  アハハと軽薄に笑う多野倉の表情が、急にしんみりと曇った。  「金払った後は、佐東からの連絡はぷっつり途絶えた。そりゃそうだよな。俺だって二度と関わり合いたくないから、クラブにも暫く顔出さなかった。そのうち、死んだらしいって情報がどっかから流れてきて――」  言葉の最後が嗚咽で潰れる。  「つか、多野倉さんが泣きます?」  「うるせぇな、曲がりなりにも身体繋げた分くらいの情は移ってんだよ」  人情派だったりするんだぜ、という言葉は存外本当なのかもしれない。鼻を赤くする多野倉を見ていると、呆れながらも何だかこの駄目な大人が可愛く思えた。  「俺のセフレ一号が未咲くんを助けたのは単なる偶然かもしれないけどさ、急に思い立ったんだ。佐東が誰に恋してたかなんて知ったこっちゃないけど、せめて俺じゃない奴があの時計持ってた方がいいんじゃないかって」  多野倉は自分でも腑に落ちないままに、けれど、そうせざるを得ないといった風に俺の手の中に時計の入った箱を押し付け、病室を出て行った。  「次こそヤらせろよ」という去り際の言葉に向けて投げ付けた枕が、閉じられたドアに当たって床に落ちる。  何だかんだいっても、多野倉は強かで懲りない奴だ。その飽くなき姿勢は、一周回って誠実とさえ思える。  気が付くと、窓の外はとっぷりと暮れていた。  ”神さま”によって歪められた世界にある筈の多野倉に不思議な廻り合わせが起こり、その衝動的な行動が、俺の手に睦月の想いを握らせた。  それは、まるで最後のお別れの様で――戻った記憶と交換に、今度こそ本当に睦月を失うかもしれないという恐怖が募る。  睦月を追いかけた事、世界を重ねようとした事が間違いだったのだろうか。  無理に近づこうとさえしなければ、たとえ幽霊であったとしても、睦月を完全に失う事はなかったのかもしれない。  沢山の後悔と無力感が際限なく俺を襲う。  祈るべき神さまが佇むのは絶望の果てだ。  ――地縛霊だろうと、何だろうと構わない。だから、どうか...どうか睦月を連れていかないでくれ。  非力な俺が手を伸ばしても届かない。浮かぶ月に静かに思う。  『――未咲』  名前を呼ばれた様な気がして、目を開ける。  いつの間にか寝てしまったらしい。気が付くと、真っ暗な天井に見降ろされながら病院のベッドに横たわっていた。  ――!?  起き上がろうとして、身体に大きな違和感を覚える。  動けないのだ。  ベッドに強く押し付けられているみたいに、手足はおろか、声すら出す事が出来ない。焦りと恐怖がゾワリと頬を擦る。  ――誰かッ、笹倉さんッ。  声にならない声で助けを求めるが、空気すら微動だにしない。  身体は動かないのに、心臓だけが早鐘を鳴らしながら走り抜ける。  頭の中で数十人とも思われる大勢の笑い声が鳴り響き、四肢は数えきれない手によって固く拘束される。  ――助け...て...。  得体の知れない何かに襲われながら、必死に救いを求める。    『未咲ッ』  澄んだ声が、ピシリと空間を分断する。  同時に、俺を取り囲む大勢の気配が一瞬でスッと引いた。  『未咲、大丈夫?』  焦がれる懐かしい気配に、涙が頬を伝う。  ――睦月。  声は相変らず出ない。身体も動かないままだ。だけど、俺の呼びかけが睦月に届いている事だけは分かった。  『未咲、怖がらせてゴメンね。無理やりこっちに来る時に色んなものを連れてきちゃったみたい』  ――こっちに来るって...睦月、お前、今どこに居るんだよ。  視界は相変らずの暗い天井を映すだけで、睦月の姿を捉える事が出来ない。ただ、声だけが頭に直接響く様に、だけど優しく語りかけてくる。  『どこでもないよ。どこにも行けないんだ』  ――なんでだよ。  『約束を破ったのは僕だから、これは”神さま”からのペナルティだ。今、こうしてるのだって見つかると本当にマズイんだけど、最後にどうしても未咲と話しがしたくって』  ――最後って...。  呼びかける言葉が、悲痛に途切れる。それを振り切る様にして、睦月が言い放った。  『未咲、お別れだ。これが、本当に最後。地縛霊として未咲の側にいる僕の猶予期間はこれでおしまいだ』                          
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