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「わ、あ…!」
つい声が漏れてしまうほど。あと少し、もう少しと登るほどに、緑はぐいぐい視界の底へ押し込まれて、その景色が眼下いっぱいに広がる。
鷹矢くんに手を引かれて、私たちはとうとう丘の一番高いところまでやってきた。彼の隣まで、最後の一歩を今、地につけたところだ。
「どう?」
並んで見下ろす、絵本の世界。深い緑に囲まれて、木組みの家々が連なる。森に溶け込んだやさしい色はまるで、はじめからその一部だったよう。ここで本当に人が暮らしを営んでいると知っても尚、幻想的に見えてしまう、この小さな街を一望できる、この丘はとっておきの場所に違いなかった。
「すごいね…!」
「良い眺めだろう?」
「うん…!」
ゆるやかな風に抱き留められながら、私は憧れていたこの世界に夢中になった。きっと、あの池のほとりのお家にシンデレラは住んでいて、今夜魔法をかけられる。舞踏会が開かれるのは向こうのお城。馬車に乗って出掛けていって、そこで王子様に出会って、ガラスの靴を――。
ふと気がつけば、鷹矢くんはもう隣に腰を下ろして、そんな私を見て微笑っていた。ちょっぴりはしゃぎすぎたかも。私は首もとのガラスの靴をきゅっと握ったまま、萎むように座り込む。
「どうしたの?」
「ううん…なんでも」
「もっと喜んでるところ、見せてよ」
「そんなに、騒いでた?」
「あはは」
「やっぱり…」
「可愛かったよ」
恥ずかしい。私の頭は抱いた膝に飛び込んだ。でも、そんな風にしていると勿体ないから、すぐにまた顔を上げる。
それきりしばらく、静かだった。
「…林堂くんとは、どう?」
そんな沈黙にするりと馴染む、鷹矢くんの声は、風が鳴るのを妨げない。この街と同じように自然に寄り添うような、やさしい響きをしていた。
「もうすっかり元通り。…まるで何もなかったみたい」
私は折っていた脚を投げ出す。
「そっか。…少し寂しそうだね」
「ふふ…寂しくないって言ったら嘘かも」
その風が前髪をさらっていく。そして異国のにおいを引き連れてくる。それが昨夜からずっと漂う何かを、助長しているように思えた。
「今だから言うけど…初恋だったの」
「うん…」
「このこと、湊人には内緒ね」
「どうして?」
「…だって、勘違いで失恋したと思い込んでたなんて…知れたら、ばかにされる」
「そんなことないと思うけど」
「とにかく、だめ!」
「あはは、分かったよ」
「…」
「…」
一瞬弾けた声は、いつからか先細り、この広々とした丘一帯に響かずスンと消えていく。だから少しの無言も落ち着かなくて、また街並みに両目を逃がす。
「…あのね、僕も初恋だったよ」
それを引き留めるように呟くから。私はゆっくりと鷹矢くんのほうへ顔を戻す。彼はまだそこを見ていた。
「遥のこと」
「…!」
遅れて私の視線に応える彼が、控えめに笑ってみせた。
「…」
そんな笑い方が、余計に。
「どうあれ、僕には最高に綺麗な、おとぎ話だったよ」
ひとつ伏せた瞼が再び上がっていくと同時に、鷹矢くんは躊躇いなく立ち上がった。横顔がどこか清々しくて、満足そうで。
「…」
やりきったんだと。
「遥」
「…なに?」
昨夜からずっと続くもの哀しさの正体。
「この先に、会わせたい人がいるんだ」
別れの予感。
「…」
「…ついてきてくれる?」
それを望むわけがない。でも、望みを叶えようとすれば、絶対に避けて通れないから。
「…やだって、言ってもいいの…?」
すぐ手前まで来ておきながら駄々をこねる、私の背中に日射しが両手を押し付ける。
「…だめだよ。そうしたら、僕は遥を泣かせてしまう」
太陽はまもなく真上に来る。今か今かと、鷹矢くんの背中に突き刺すため振りかぶる。
「物語に、結末はひとつしかないから」
明るくて、酷な。
「…!」
その唇の動きを、私は前にも見たことがある。
「遥は、どっちを選ぶ?」
問いは、容赦ない光に溶けて。
「…タカヤと、僕と」
弱く響きすらしない鷹矢くんの声は、どこまでも幻想めいたこの世界を激しく揺さぶる。千切れるほどしがみついても、保つには足りない。座り込んで首を振る私に粛々と、突き付けてくる。
「ここで選ばないと、」
どちらか、ひとつだと。
「二度と…会えないよ」
だったらせめて、言って欲しい。あのときみたいに「僕を選んで」って、
「会えなくなってもいいの?」
言って欲しい。
「…や…」
お願いだから、言ってよ!
「…っ」
声にならなかったものに代えて、溢れてくる涙を、鷹矢くんはひとつひとつ掬ってくれた。
ぼんやり、はっきり。曖昧な視界がクリアに。その繰り返しの中で、鷹矢くんはいつもと変わらなくて、こんな時でさえ、笑って。
「…遥」
だから私も立つしかない。
鷹矢くんの覚悟を前にして、私だけ自分勝手に叫べない。
「会いたい…っ、」
ずるいよ。
「タカヤくんに、会いたいよ…!」
こんなふうに「私」を引きずり出すなんて。今まで必死に、押し込めようとしてきたのに。
あなたたちは二人して、本当に――。
「うん。…来て。遥」
何度こうしてくれたか知れない、もう最後かもしれない。私はぎこちなく立ち上がり、そこで待つ彼の右手に、涙まみれの左手を乗せた。
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