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結局たどり着いたのは、テニスコートが眼前に広がる、通路沿いの花壇だった。組まれた煉瓦の上に、並んでそっと腰を降ろす。瑞々しいサルビアの、真っ赤な密度を邪魔しないようにして。
「ふー。もうこんな時間だね」
見れば昼休みはもうあと残りわずか。さすがに私もお腹はぺこぺこだ、と、ここで重大なことに気がついてしまう。
「あれ、そう言えばハルカ、お弁当は?」
あるべきものが無い。
「…教室に、置いてきちゃった…」
両手はすっからかんだったのに、どうして今まで不思議に思わなかったんだろう。答えは分かっている。考える暇なんてなかったから。
「ははっ、ハルカらしいや…」
鷹矢くんに、どきどきさせられて。
「はい」
目の前に差し出されたハムとチーズのサンドイッチと、彼の屈託ない笑顔とを見比べていたら、私の遠慮というものはみるみる溶かされ無くなった。ついに両手でそれを受け取る。
「…ありがとう」
「どういたしまして」
そのままにこにこと、同じものを彼もひと齧りした。その動く頬を見ながら、私はまだそれを口にできず、代わりに押し戻せない言葉が口を衝く。
「…『ハルカ』さんも、おっちょこちょいだったの?」
「えっ…?」
「あっ、ごめんね、訊いちゃいけないことだったら、忘れて!」
ひととき止まった隣の咀嚼は、ゆっくりと再開して。私は両手に持った綺麗な三角を見つめたまま、サルビアの微かな蜜の香りにも苛まれる。
「…ハルカのこと、知りたい?」
知りたいか知りたくないかで言えば、もちろん知りたかった、けれど。一面の赤に飲み込まれそうな彼の切なげな表情を見ていたら。
「…話したくなければ、…無理はして欲しくない」
知りたいというより、知る必要があると言うべきなのかもしれない。どんな人かを知らないと、私はちゃんとハルカさんに成れないと思うから。二人がどんな関係だったのか――きっと恋人同士だったのだろうけど――どうしてハルカさんは今、鷹矢くんの隣にいないのか。そういうことも含めて全部、まだ何も、私は知らないもの。
私と似ている、同じ名前の女の子、ということ以外は、何も。
それが表情に出ていたのかもしれない。掬い取るように、私を撫で見て彼は、
「そうか、僕が『ハルカに成って』なんて言ったから…?」
一層あえかに微笑んだ。
「…!」
花が鳴き出す、一斉に。
待って。覆ってしまわないで。
あなたたちのような強い赤の大群に、儚い彼は敵わない。
「ちがう、私がそうしたいだけだから!」
抗おうと強く首を振ったのに、風までもが無遠慮だった。赤に肩入れするように。ざあっ、と。甘い香りも私の髪も彼の吐息も。すべて空に召しとられていく。
それでも、私の必死な心言だけは、彼のもとにちゃんと届けられた。赤を包みやさしく溶け込んだ、この笑顔が確かなサイン。だから私だけまた、見とれてしまう。
「本当に、ハルカは優しいね…」
「…」
ううん。私ははにかみながら、今度はゆるく首を振る。あたたかくてやさしいのは、
「ありがとう、」
鷹矢くんのほう。
――ありがとう。…いつまでも、……。
重なる。それは昨日の笑顔。
「ハルカ…」
温度を湛えた頬に持ち上げられた、優麗な瞳。しなやかに染み渡る。今は夕陽のフィルターも取り払われ、降り注ぐ陽射しにより鮮明に、色濃く、ここに。
「いつまでも一緒」の幸せをかたちにしたら、こんな笑顔なんだね、きっと。
私が夜ごと、絵空に見つめるシンデレラの未来。それを彼がこうして、降らせてくれるなら。
たとえ、私の向こうの誰かに向けられたものだとしても。今はかりそめのキャストだとしても。私の憧れはここにある。いつか、満ちてくれるはず。彼の恋を継いだ先に、きっと――
――…いつまでも、一緒にいて。
それは、あるはずだから。
そう信じてみたいから、「ハルカ」を私は、やりきってみせるよ。
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