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かりそめキャスト
息も鼓動もとまった。
何が起こっているのか、分からない。目線の高さまで、ぐいと持ち上げられたこの、疑いようのない左手を、目の当たりにしても。
指という指は全て捕まった。
「何固まってんの?」
影に塗られた表情に、瞳だけがぼんやり光を蓄える。いつの間にか隣に立って、覆い被さるように私を見る、この不敵な笑みは一体、誰――?
「蓮未、くん…?」
「…」
口の端は下がる、開く。垣間見える白い歯。僅かに鋭くした目元にかぶさる、睫毛の一本一本に夕陽をまぶして。
「『タカヤ』」
「え…っ」
「ハルカ、いつもそう呼んでんじゃん、俺のこと」
厚みを増した彼の瞳が、私を捉えて逃がさない。なんて強引な視線。有無を言わせない口調。確かに蓮未くんなのに、蓮未くんじゃない。私は、下の名前で呼んだことなんて、無い。
「…だれ…?」
声になれずに呟いた、私の精一杯の問い掛けを、彼は盛大なため息で散らし、
「いいから、」
思い切り、結んだ手を引く。
「呼んでよ」
「…っ!」
彼の胸にぶつかりそうになる直前、棒になりかけた脚は踏みとどまる。だから爪先だけの衝突。
至近距離の瞳、映る私の顔すらぼんやり揺らいで。とまっていたはずの心臓は乱れながら飛び回るから、この息もか細く。呼応するように震える瞼に、瞬きすら許さない。
人質にとられた左手は彼の向こう側。夕色を抱き込んでまっすぐ、ゆっくり心臓へと歩いてくる眼差しは一層強く。言うまで返さないと身勝手な意思を捩じ込む。
これじゃ、王子と言うより暴君だ。
「……」
指と指の隙間が埋まっていく。そのたび舌先がしびれていく。わずかな酸素を手繰り寄せるように、小さく、私は息を吸い込んで――
「鷹矢、くん…」
ふっと、
「…合格」
やわらいだ。繋いだ手も、目も口も、風も温度も空気もすべて。
その向こうでパチンと、音がした。
薄く息をつくその微笑みはやっぱり王子様で、このひととき見つめられていた強引な彼は幻だったんじゃないかとすら思うほど。
「ごめんね、驚いた?」
私は安堵した。声がやわらかい。
「あの…今度こそ、…蓮未くん?」
腕をそっと私の身体に沿わせるようにしてから彼は、ひとつずつ指を解放していく。最後の指先、触れていた私じゃない体温が離れていくのを、戸惑うくらいに、なんだか、
「…だめだよ、」
引き留めたい、なんて。
「さっき教えた通りに呼んでくれなきゃ」
「…!」
「でないとまた、怒られちゃうよ?」
少し、寄せられただけなのに。やわらかくてやさしい、それでいて少し悪戯っぽい。傾いだ首、なけなしの夕陽をすべて吸い込んだ彼の笑み。王子様はいつだって、私の瞳も酸素も、太陽まで奪う。
「…だれに…?」
さっきまで、融かすほどに私を見ていた彼の朧姿が、また少しずつ質量を伴いはじめ、
「……」
鷹矢くんはすっと数歩離れた。落ちゆく陽がその背中へ黒を注ぐ。唇を起こす横顔が、どんな表情をしていても、分からなくなるくらいに。
「…僕の中の、俺」
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