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ep.1 黒薔薇の兄弟
六月七日、二カ月ぶりに教会の扉を開いた日。蒼と紫の淡さ、昨夜の雨粒とぬるい風が身体にまとわりついていた。
いつもと変わらない百合の香りと、想定される静けさ、蝋燭のあたたかい光が当たり前に、いつもどおりあった。この普遍性を求めて僕はここへ来る。
そして、またあの人を見つけた。四月にも、十二月も見かけた。
冬でも春でも、黒い長袖のシャツでなんとなく違和感があったことでよく覚えている。
そして、この日にはより一層の特別感をもたらして、僕の頭から離れない記憶になった。なぜなら、あの人が、美しい白いシャツを着ていたから――。 ちょうど、教会の鐘が十九時を告げた。教会内に響く鐘の音と、ガラス窓に反射する蝋燭の揺れる灯が、あの人の白いシャツの皺をたゆたう。
あの人が天使に––。天使に見えた。そして、事実、天使だった。 本当に情けなくて、失礼な話だけれど、その日のミサの内容は全く頭に入らなかった。主任司祭の説教も、答唱詩篇とうしょうしへんも何を言ったかまるで覚えていられなくて、ただ前から四列目で熱心に祈り続けるあの人を見ていた。聖体拝領せいたいはいりょうにも立てず下を向いて祈っている振りをした。オルガンが鳴ってはっと気づいた頃にはミサは終わりに近づいていて、あの人はまた熱心に司祭を見ていた。滑らかな白いシャツ、柔らかそうな艶やかな黒髪、真っ白な首筋がその神聖を携えて、光っていたように思われた。
四月二十九日。あの日も気まぐれで教会に来た。
桜の花も昨晩の桜流しで随分散ってしまった。鮮やかな緑の葉が、木漏れ日の密度が深くやさしい陰を作る。この日は昼のミサに来た。
あの人はいるだろうか?ほんの少しの期待とともに扉を押す。そして、すぐに見つけた。前から四列目で、跪いて祈る姿と、しっかりした生地の黒いシャツ。人が祈る姿はこうも端正で美しいものなのか――。
十二時の鐘の音が夢心地から現実に引き戻した。それでも、教会の中の現実とはいいものなんだ。この扉の外より随分マシなんだ。
六月八日、どうにも我慢ができなくなって、教会に向かった。ミサがある時間でもない午後四時、教会の敷地内を歩く神父様を見つける。
「神父様、お聞きしたいことがあるのです」
「はい、どうしましたか?」
「あの、いっつもごミサの時、前から四列目くらいに座っている人をご存知ですか、えっと……黒い髪の毛で、黒い服をいつも着ていると思います」
「ああ、ええ、知っていますよ。どうしたの?」
知っている!四列目くらい、なんて表現に自分でも恥ずかしくなる。本当は全て覚えているくせに、怪しまれたくなかったから。
「えっと……なんとなく、お友達になれないかなと思って……」
「お友達にですか……。由吏(ゆり)君、ではお名前だけ教えておこうね……。彼は、平井瑠歌ひらいるかというお名前だよ。留めるという時の横に王偏、カは歌うという字だ。瑠は学校では、習っていないね?」
「瑠歌」
「はい。瑠歌さん。年は十六。お友達に……なれるといいですね。由吏君ならあるいは……。では、私は病者訪問があるから、またミサでね。いつでもいらっしゃい。学校は好きな時に……。」
「梶尾(かじお)神父様、ありがとうございます」
心臓がドキドキする。るか?ルカ?瑠歌……。
ルの字は学校では習わないけど、読書をしているから知ってる。瑠歌、瑠歌、瑠歌。
でも、神父様はまるで友達になるのが難しいっていう顔をしていた。僕が瑠歌さんより五つも歳下だからかな。
今日のミサでも会えるかもしれないと思うと、そわそわして、十九時までの時間をやり過ごすために教会のそばのベンチで、今読み進めている『the raven』を革の鞄から出す。
礪茶という色の本革の鞄で、少し僕には重い。日本語訳と英語の原文を交互にチラチラと見る。
「由吏」 唐突な呼びかけに驚く。顔を上げる。
「何……。深山みやま、こっちこないで。」
「深山なんて呼ばないでよ。学校、もうかなり来てないから、ここに来たらいるかなと思って。プログラム中も我慢ならなくて、ピアノを弾くと言って出てきた。温室に行ったがいないと言われてね」
「余計なことしないで。僕はとても学校になんて行きたい気分になれないんだから。」
「分かるよ、うん、当然そうだろうけどお前に会いたかったのが本音だよ。」「僕は深山(みやま)と話したくない。だいたい昨日も会ったでしょう。教会の敷地に入ってこないで!」
「非道いなあ、僕だって生まれてすぐに洗礼を受けたっていうのに」
「普段全然お祈りもしないやつに何にも言われたくない」
「上級生に失礼な子だなあ。ほら、ちゃんと呼んで」
「嫌だ」
「呼んで」語気が強まる。
「嫌だ……」なんだか身体から力が抜けてしまう。
深山の、凛(りん)の声にはそんな恐ろしさと鋭さがあって、僕は、怖くて、なんだかいつも負けてしまう……。
「由吏、由吏が学校に来ないことで僕がどれほどつらい気持ちでいるか考えたことがあるか?僕の毎日の雑務の負担は?そしてお前が側にいないことで僕がどんな目で他の薔薇ばら達に見られているか分かるのか」
「ごめん……なさい。凛……」
「そうじゃないだろう。きちんと呼びなさい。僕に本当に悪いと思っているのか?呼びかけすらきちんとできないか?呼応(こおう)しなさい」
こうなるともう、深山凛はどうにもならない。
彼の制服、白い半袖から伸びる真っ白な腕、腕組みをして僕を見下ろす瞳、ネクタイは濃紺、それは中等部二年を意味する、胸ポケットにはバッヂ、黒薔薇のモチーフ……。サン・ヨハン学園の中での一つの地位を意味する。
僕は浅い呼吸をする。
「黒薔薇くろばらの兄弟……黒薔薇のもとで結ばれし恒久こうきゅうの契ちぎり、静けき夜の星から明日の光までを永遠に約束します。深山ミヒャエル凛……」
ここで深山が雪のように白い右手を差し出す。僕は続ける。
「その手を携えてください」
そして僕は、両手で彼の手のひらを取って、その手の甲に口付けする。
「黒薔薇の兄弟、黒薔薇のもとで結ばれし恒久の契り、始まりの言葉から終焉の燃える日まで絶え間ない慈いつくしみをこの者に誓います。真城ましろアルフォンソ由吏」
声は静かな教会の敷地内で、頭上の木々がそよぐ音すら聞こえる、そんな静かな場所を邪魔しないような程度に淀みなく僕を縛った。
僕は訓練された従順な犬になって、瞼を閉じる。小等部二年の頃から躾られていたら、こうなるのも無理ない。僕はもう六年生だから、もう四年も凛と……。
顔が、凛の細長い十本の指に包まれる。両頬に指先の繊細さを感じる。瞼にあたたかい感触。凛の唇の温度。嫌でも分かってしまう。
「兄弟の呼応」と呼ばれる一連の流れなんだ。右瞼、左の瞼。
僕は顔に力が入る。でも想像されたことは起きなかった。手が離れたので、目を開ける。
「由吏。由吏は本当にいい子だね。今日はもちろんお前に会いに来たけど、一つ報せがある。七月七日の星桜会(せいおうかい)」
星桜会!僕と凛が黒薔薇の兄弟に選ばれたのが最後だった。
それが開催されるということは–––。
僕の表情から凛が何かを読み取ったんだろう。
「そういうこと……。今回は青薔薇が一輪選ばれるらしい。よっぽどのことだよ。必ず会には参加すること」
そう言うと僕の頭をくしゃっと撫でて、凛は姿を消した。頭がぼうっとして、ミサまでの時間をどう過ごしたか、よく思い出せなかった。
その日のミサには結局、瑠歌さんは来なかった。
ミサが終わっても動けなくて、凛のことを考えた。凛、凛。
言葉遣いが悪い凛。僕のことをお前って呼んだり、たまに怖い顔をする凛。
直毛のさらさらの黒髪、前髪がいつも長くて目にかかっている凛。僕が七歳で、凛が九歳。凛は一年生の時から黒薔薇に選ばれいたと聞く。
一輪の薔薇に選ばれることは、当人の薔薇としての素質、IQ、卓越した何かしらの能力など総合的な物差しで他者より圧倒的に優れていることを意味する。
そして、一輪目に選ばれた薔薇は、相性の良い薔薇を待つ。
現れなければそのまま卒業する。凛は一年生で選ばれて、僕が二年生でもう一輪になるまで三年間ひとりぼっちだった。
薔薇に選ばれる者は、他の生徒とは違う学習プログラムが課せられて、教室も違うことが多い。芸術全般、たとえば、絵画、楽器、ほかには哲学、神学、語学、詩作などを詰め込まれる。凛は最年少で一輪になったから、かなり辛かったと思う。僕は、なぜ自分が黒薔薇に選ばれたのか今でも分からない。
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