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彼が『恋人』なっても今まで通り。会社内で特別親しく会話をする事は無い。
いや寧ろ『恋人』になったからこそ…女は必要以上に慎重に行動した。
誰にも勘繰られてはいけない。
週明けの通例となっていたスィーツの差し入れも、人の噂にのぼる言動と判断し、即刻中止した。
社内メールや内線電話はおろか、個人携帯へのアクセスも一切避けた。
彼も女の気持ちを察してくれたのか、勤務中は素知らぬ顔で過ごす。
そんなふたりの間に、秘密のサインが生まれた。
逢瀬の場所はいつも彼が決め、同僚たちとのさりげない会話に混ぜ込み女に伝えてくる。
本屋、CDショップ、家電量販店…待ち合わせ場所でも人目を気にし偶然を装い声を掛ける。
普通の恋人たちのように腕を組んで歩くことも出来ない。
淋しくないといえば嘘になるが、なるべく前向きに考えるようにした。
ホンの束の間の逢瀬にも沢山の発見があった。
彼の愛読書が、ひと昔前に流行ったコミカルなミステリー小説だとか、好きな音楽が意外にもハードロック系だったり―――――
新たな一面を知るたびに、また少し彼に近づいたようで嬉しかった。
ある時は、大学の友人たちとの飲み会に誘ってもらった。
『会社の部下』として紹介されたのだが…それでも女は満足だった。
小学校からの付き合いだという親友はとても話上手で、中学生時代、学校に遅刻しそうになって閉まりかけの校門に自転車で突っ込み、顔面を打ち付け鼻血を出したエピソードなど臨場感たっぷりに面白可笑しく語ってくれた。
その時の彼が見せた照れたような顔を思い出す度、ついニヤけてしまう。
密やかな交際は順調だった―――――順調だった筈…
なのに、何故?
最近、彼からの誘いがぷっつりと途切れてしまったのだ。
そればかりか、女が彼に近づくとさりげなく離れて行ってしまう。
明らかに避けられている。
思い当たるのは…たったひとつ。
きっと彼の妻が、夫の『恋人』の存在に気付いてしまったのだ。
だから彼は急によそよそしくなってしまった。
きっと、きつく言い渡されたに違いない。
『女と別れろ』と―――――
瘦せぎすの、如何にも小意地の悪そうな妻の顔が脳裡に蘇る。
あの日、あの場所へ行かなければ…後悔ばかりが先に立つ。
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