指輪

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 イーゼルとキャンバスまでは分かる。それ以上の絵の知識は美代子にはない。絵の具と筆で描くものと思っていたが、インク入れみたいなやけに凝った壺や、ケーキにクリームを塗るナイフなど、よく分からないものが散乱している。   着替え、持ってる  鞄の中のジャージは少し湿ったくらいで無事なので、あります、と答えた。   風邪引いちゃうから、着替えたらいい。気になるようならどこでも好きな部屋へ行って。ただ、  ただ、と言って言葉を切った彼の視線は、いつの間にか美代子を包み込んでいる。   あと五秒だけ、そのままの姿で居てくれないか  それが本当に五秒間だったのかは分からない。美代子が自分の心臓を十回目に聞いたとき、ありがとう、もう着替えていいよ、と告げられた。肌を出さずに着替えることくらいできるので、その場で服を替えた。  その間に温かいコーヒーが淹れられていた。本当はあまり得意でないのだが、拘り抜いたカップに目を取られて頬が緩む。ありがとうございます、と言った声が思いのほか壁に吸い込まれ、本当に彼に届いたのか心配になった。  画家の先生なんですか、と訊く。画家が一般に先生と呼ばれる職業なのかは分からない。まだ若くて汚れたジーンズすらよく似合うが、美代子は先生と呼びたかった。先生と呼ばれるほどではないよ、と、思ったとおりの返事だった。いま、僕の最高傑作を探してるんだ、と彼は付け足した。   雨が止むまで待つ、それとも、傘を貸そうか  本当はもう少し、否ずっとずっと、この人に微笑まれていたかった。気づいていながら後者を選ぶ。   分かったよ、玄関に三本あるから、好きなのを持っていったらいい。だけど  彼はまた言葉を切る。その度に自分の鼓動が聞こえる。   返しに来る時、一つ仕事を頼みたい  今じゃなくて良いだけ優しいのだろうか。それとも、危ない人だとしてもここに戻って来たいのだろうか。美代子は声も出さずに小さく頷いた。
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