1章

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 続いて小林は机の上に並べてあったプリントにひょいと手を伸ばした。最近老眼がひどくなっているものだから、眼鏡を額にずらしてからその内容を読んでみる。 「接弦定理? 中学の予習でもしているのか?」 「いえ、これが春休みの宿題なんです」  いやいや……あいにくとまだ春休みにもなっていなければ、卒業式も終わっていないぞ。 「あぁ、そうか。君は私立中に行くんだったな。どこに行くんだね?」  小林の何気ない問いに、隼斗は戸惑いの表情を浮かべた。 「いや、答えたくなければいいんだが」  どうしても聞いておかねばならないことでもないのだ。そんなに嫌がられると思っていなかった小林が遠慮すると、彼は小さな声で「……栄耀です」と答えた。 「ほう……そりゃ名門だな」  私立中学のことなんてまるで知らないのだが、それでも名前くらいは聞いたことがある。この辺りじゃ最難関の男子校だ。 「ふうん……じゃあ、こんなに難しいことを勉強して、曽根くんは将来何になるんだい?」 「それはこれから……」  つまりこの子は特に目標もなく、ただ勉強をしているだけ、ということだ。  全く……そんなことだから頭でっかちの、小生意気な子どもに育ってしまったのだろう。 「授業に出るよりも、この宿題の方がおもしろいのか」 「……はい」 「そりゃまぁ、そんなに難しいことを勉強しているなら、小学校の授業なんて時間の無駄に感じても仕方がないな」  少々嫌味を利かせた小林の言葉に隼斗ははっきりとした返事をせず、代わりに先ほどと同じように微妙な笑い方をした。 「……それじゃあ、まあ、がんばって」 「はい」  控えめな会釈で応じた少年は、その数秒後には小林の存在など忘れるほどに集中した様子で春休みの宿題とやらに取り組み始めた。  静かな図書室は絶好の自習スペースらしい。保健室の方が誰かに見つかった時に言い訳をしやすいだろうが、ここまで自由に勉強はできない。この子の場合、授業をさぼりたい、というよりは、本当に自分の勉強を進めたいらしい。  これでふざけて遊んでいるなら小林にも注意のしようがあるが、一生懸命勉強されてしまうと咎めるわけにもいかない。  小林は少年へのアプローチを諦めて側を離れた。実際、いつまでも彼に構っていられるほど、小林も暇ではないのだ。
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