アシュヴァッタ

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 男が座っている傍らへ、密やかに忍び寄る影が一つ。やがてそれは男の面前で立ち止まる。 「ねぇ、そこの御方。ここで何をしていらっしゃるの」  男の元へ近づいてきたのは、端整な顔をした女だった。切れ長の目元に泣き黒子が一つ。艶やかな黒髪は日に照って輝いて見える。そして、その体には覆い隠す物が何一つとして無かった。柔らかな肌に丸みを帯びたシルエット。それでいて要所要所が引き締まったその身体を、まるで見せびらかさんとばかりの振る舞いだった。  女は跪いて、男と同じ目線に合わせる。それから無遠慮に迫っては、男の耳元へ唇を近づける。女の肌が、男の体に密着する。 「ここでただ座っているだけでは、刺激が足りないのではありませんか。このように何もない所では、さぞ心も乾いてしまうことでしょう。私でよろしければ、貴方様の心を潤わしてご覧に入れましょう。いかがですか。私の体ではご不満でしょうか」  女の吐息が男の耳に当たる。しかし、男は動じることなく未だに目を閉じている。 「別段刺激は欲していないさ。それにここには何もないということもない。ここには青空があり、草花があり、澄んだ空気があり、この大樹がある。耳を傾ければ葉擦れの音があり、肌に神経を尖らせれば陽光の暖かさがある。それらに触れるだけでも、私の心は満たされるものさ。あらゆる事物に価値を見出すのは、己の心だ」  男は諭すように言葉を発する。それを受けて、女は舌打ちをして男から離れる。 「なんてつまらない男なのでしょう。そのような人は体に苔が生えるまでずっと座っていればよろしいのです」  そして女は立ち去る。遠ざかる足音を意に介さず、男は再び訪れた沈黙に身を任せる。  どれだけの時間が経ったことだろうか。その間、大樹の枝に小鳥が留まって(さえず)っていた。奏でられる唄声を聴いて密かに口角を上げる男。安らかな表情へ変わっていく。それから、男の腕に小虫が留まった。男はそれを追い払うことをせず、小虫の好きなようにさせていた。やがて虫は何かを発見したのか、男の腕から飛び去っていった。
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