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それでも俺は彼女とセックスがしたい
食欲、性欲、睡眠欲。人間にはそれらの三大欲求が存在する。俺たちは何も知らなかった。でも俺は知ってしまった。
だから、俺たちは追放された。
「今、どのへんにいるんだろう?」
飽きもせずに窓から外を見ている彼女に、俺もまた飽きもせずに返事をする。
「さあな」
ここがどの銀河で、今どこにいるのか。人工知能は何を思ってこの船を、いや、この部屋を操縦しているのだろうか。もとより感情などないはずだが。
遥か昔、人類は地球という惑星で暮らしていた。なぜ地球を後にすることになったのかは、政府は語りたがらなかった。もしかしたら知らなかったのかもしれない。俺の母親も、祖母も、曽祖母も、そのまた祖母も、「エデン」の水槽の中で生まれ、「エデン」で暮らしたそうだから、地球を見たことがある人間がいないのも頷ける。
「C1237、私たち、地球が見られるんだよね」
「その呼び方、もうやめにしようって言っただろ」
「そうだったね。ごめん。ヒフミ」
俺たちの先祖は、ニホンという国で巨大宇宙船「エデン」を作り上げた。エデンには充分に生活できるだけの施設が揃っていた。しかし、政府はそのうちに、AからDまでのランクに人間を分別した。船を統治する政府はA級民とされ、それぞれ個別にナマエと呼ばれるものが付けられていた。B級民は政府を守り、それ以下の民を制圧、管理するための部隊。俺たちがいたC級民の生活は、可もなく不可もなくだっただろう。政府の指示通りに働き、栄養を供給され、休息する時間もあった。D級民のことは、俺も詳しくは知らない。彼らは隔離されていたからだ。
「シイナ」
何、と笑って彼女が振り向く。彼女の「ナマエ」は俺がつけた。特に意味はない。C1742、というのが船での識別コードだったからだ。
「……地球が見えたら教えてくれ」
何度目かもわからない言葉を吐き捨てて、ベッドの中に潜り込んだ。
「地球、まだ住んでる人がいるのかな? 人間じゃない生き物もいるんだよね? トイプードルと海が見たいな」
政府の資料データを盗み見て、初めて地球のこと、自分のことを少しだけ知った。
地球は、太陽と呼ばれた白く光る恒星の周りを回っていたこと。そのため、明るい「昼」という期間と、暗い「夜」という期間が交互に訪れていたということ。塩辛い水が大量に存在したこと。それは海と呼ばれ、大地からは青い空が見え、白いふわふわした雲という塊が浮かんでいたこと。人間以外の生物も数多く存在したこと。画面の中に並ぶ写真はどれも美しかった。
だから、行き先は地球に設定した。
「プテラノドンに乗って、雲に触ってみたい」
シイナはまだ外を見ている。地球に着く日を心待ちにしている。地球は果てしなく遠い場所にある。生きている間に、辿り着けるかはわからない。
俺は薄い毛布を頭までかぶったまま、返事もせずに目を閉じた。
カラン、という軽快な音が鳴る。栄養供給用ドロップが自動生成されたのだろう。近くの星から栄養の素となる物質を集め、自動生成しているのだ。今はまだ別に、腹は減っていない。それよりも瞼が重い。眠りたいときに眠ることができる。
ただ生きて、小型船に乗ってただ宇宙を漂う。それが俺とシイナに与えられた罰だった。
資料を盗んだことは、すぐに政府の耳に届いた。「シマナガシ」にされる、知るということがそれほどの重罪だということもわかっていた。構わなかった。それほど俺は知りたかった、のかもしれない。
「お腹空かないの?」
ああ、と相槌を返す。
「ドロップじゃなくて、『ゴハン』が食べてみたいね」
どうやらドロップを食べたらしい、シイナがもごもごと言った。
地球のことを知っただけならば、罰せられたとしても極刑にはならなかっただろう。
しかし、俺とシイナは「セックス」という行為の存在を知ってしまった。
子供を作るために、地球で行われていた行為。男女が性器を結合させる。そうすることによって女の身体の中に子供が宿る。
幼い頃に遺伝子を検査され、最も相性のいい相手との髪か爪、もしくは皮膚のかけらを培養して子供を作っていたエデンとは全く異なる方法だった。
政府は、民を完全に支配しなければいけない。限りある物資を供給し、暴動を起こさないためにはその方法が不可欠だった。だから政府はセックスの存在を知った上で隠蔽していたのだろう。B級民以上は衣服を身につけていた。知っていたから。
そしてそれは繁殖のためのみならず、快楽のためにも行われたらしい。
彼女は、どう思っているのだろうか。
不必要だと思うだろうか。無論、それが当然だ。この小さな船の中に子供はいらない。それとも、能天気なシイナのことだから、なんとも思っていないのだろうか。
「お腹いっぱいになったら眠くなっちゃうねえ」
間延びしたシイナの声と、マットレスが沈む感覚にただ身を委ねる。
「もう寝ちゃった?」
「起きてる」
彼女の足先が触れてどきりとしたのは、その足がひどく冷たかったからという理由だけだろうか。
食欲、睡眠欲、と同じくして性欲が存在するならば、なぜ今までそれを感じなかったのだろうか。セックスという行為を知らなくとも、欲求は存在するはずだ。もしかしたら、ドロップの中にでも抑制剤が入っているのかもしれない。
「ヒフミは、地球についたら何がしたい?」
「俺は……」
しばらく考えた後、乾いた唇を唾液で濡らしてから言った。
「人間らしく生きられたら、それでいい」
「どういうこと?」
「わからん」
人間らしく。誰かに管理されるわけでもなく。管理されていない自分が、一体なにをしたいというのか。
息苦しくなって、毛布から顔を出して目を開ける。船の中はいつだって明るい。外はいつだって暗い。
「何か食べたら?」
シイナが、俺の髪を撫でながら言う。
「何かって、ドロップしかないだろ」
その手に自分の手を重ねる。柔らかい指と緩やかな体温。その中に流れる体液を思う。
「私ね」
暫くの沈黙の後、シイナが口を開いた。
「地球はもう死んでしまっているとおもう」
この部屋に詰め込まれてからずっと、地球の話ばかりしていた彼女がそんなふうに思っていたとは、想像していなかった。開きかけた言葉を閉ざす。
「だから、もしそうだったら、新しくつくるの」
地球を、と眠たげに続ける。俺はただ、その唇のなかを見ている。
彼女が瞼を何度かぱちぱちと瞬かせると、長い睫毛の隙間から水滴が零れ落ちた。
「眠いなら早く寝ろよ」
その涙の意味がわからなかった俺は、誤魔化すように言った。困惑、していた。思えば、俺が政府の資料を盗む計画を立て、シイナ――C1742を誘った時から、いや、もっと前から俺は困惑していた。
原因である彼女は、それをまるで知らないとでも言うように、うん、と呑気に笑った。
「……でもね、こうしていると楽しいんだ」
シイナは細い指で俺の手を引いて、何も言えやしない俺の身を起こした。
「今、どのへんにいるんだろう?」
星が斑のように滲んで広がったり霞んだりするのを見ながら、何度目かもわからない言葉を聞く。
わからないまま、さあな、と返す。
「案外、もうすぐかもな」
そんなはずはない。宇宙と呼ばれるここが、気が遠くなるほど広いことは知っていた。
「それに、こんなに沢山の星があるなら地球じゃなくても生きられそうだ」
嫌、とシイナが即答する。
「私は、地球でトイプードルと海を見たい。プテラノドンに乗って雲に触りたい。お腹が空いたら料理して、二人で食べるの」
普段の姿とは違った、きっぱりとした言い草だった。
それは、こんなにも多くの星があるのに、俺がシイナを好きなことと同じなのかもしれない。
小さな窓に切り取られた狭い宇宙、いや、そこに映る彼女を見て思った。
「怖くないのか?」
これからのことが。こうしていると、くだらない自分の好奇心のせいでこんな目に遭わせてしまったという罪悪感に潰されそうだ。これなら最初から一人ですべて終わらせれば良かったとも言えるだろう。今更そんな虫のいい考えも許されないか。行き先を地球に設定した時、政府はどう思ったのだろう。シイナの言うとおり、地球はもう美しい姿を失っているだろう。それに、生きている間に辿り着くこともないだろう。
「ちょっとだけ」
窓に映る顔が、照れ臭そうに笑ってから視線を逸らした。その「ちょっと」が、地球へ辿り着く前に死んでしまうかもしれないということを理解してなのか、たどり着いたとしても理想郷は存在しないことを想像してなのか、もっと曲解してのことなのか。それとも、俺に対してか。よくわからなかった。
「人間らしく生きてみようか?」
窓の中に、彼女の横顔があった。はっとして視線を向けると、無邪気な笑顔が真正面からよく見えた。たまらず、その頬に触れる。
「人間らしく?」
さっき自分で言ったはずの言葉が、なぜだか可笑しくて、恥ずかしくて仕方なくて聞き返した。
頬を、髪を、耳を、撫でる。力を入れてしまえば、簡単に消え去ってしまいそうだった。目を細めるその瞼に触れたとき、ふと彼女の命を掌握していると気付く。
ううん、と口籠った後、
「私らしく、って言ったほうがいいかなあ?」
と続けた。
言葉の意味が俺にはよく理解できず黙るしかなかったが、彼女は沈黙を許さなかった。
「ここで、たったひとつしかない地球のことを考えて、考えたことをヒフミに話して、ヒフミはそれに『わからん』とか『なにそれ』とかって言うの、それが私らしく生きること。これは諦めとかじゃなくって、私がそうしたいなって思うこと」
あまりに単純すぎて、あまりに美しくて、本当は今すぐにだってどうにかしたかった。けれど、その感情をどうにかする方法を知らなかった。ただ、その柔らかい彼女の肉に触れていると心地がよかった。
「あれ、変なこと言っちゃったかなあ」
間延びした、舌ったらずな口調。
「変だな」
思考を悟られたくなくて、無理矢理に酷いことを言って笑って見せた。
やりたいことをやるというのが、自分らしく、俺らしく生きることならば――。
生殖が目的なら、水槽で増やせばいいし、こんなところで子供など育てられない。
それでも、俺は彼女とセックスがしたい。
いや、触れていたいと表現したほうが正しいかもしれない。ただ目の前にある小さな命に触れていたかった。
「ひどいなあ」
シイナは笑った。
ごとり、と奇妙な音が聞こえた。すぐにそれが栄養補給用ドロップの取り出し口から鳴ったということに気付いた。配給時間があまりにも早い。それに、いつもとは違う、何か重さや大きさのあるものが落ちたような音。
まさか壊れてしまったのではないだろうな、緊張で体が強張った。シイナも同じだった。
恐る恐る歩み寄り、取り出し口の蓋を開ける。
そこには赤い球体がひとつ転がっていた。手に取ってみると固く、手のひらより少し大きいくらいの大きさだ。表面は少しべたついていて、嗅いだことのない甘い匂いがする。
この人工知能は近くにある星の物質を収集することで、栄養分を生成している。
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