バルバロッサ ~史上最大の作戦~

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 フクロウの鳴く声が聞こえてくる。  日付をとうにまわった深更のことだった。  昼間は動けば汗ばむほど陽光が強くなってきたものの、夜半にはぐっと気温が下がる。風はほとんどないが、直立不動のままだと肌寒く感じられる。  寒冷な北の大地にも、短い夏が駆け足で訪れようとしている。夏至が近い。  多くの人々が眠りについている時刻だが、ソ連との国境線に張りつくドイツ国防軍の兵士たちはみな、出撃準備を済ませている。  明かりが漏れないよう細心の注意を払った司令部の一画で、まもなく開始される奇襲作戦の最終確認が行われていた。 「いよいよ、始まるな」 「はっ」  参謀長であるヴィルヘルム・ライス大佐は直立不動の敬礼で、第2装甲集団の司令官ハインツ・グデーリアン上級大将に応えた。  長身の司令官の襟元で揺れている十字の徽章は、歴戦の猛者たる証である。  敵地への勇猛果敢な進撃を得意とすることから『疾風ハインツ』の異名を持つ上官は、陸軍の中でも稀代の戦術家として、若手将校を中心に尊敬を集めている。ライス自身も、熱烈なグデーリアン崇拝者の一人だった。  自ら指揮車輌に乗りこみ、前線を縦横無尽に快走する指揮官など、他にいない。  作戦の立案者でありながら、幹部の誰よりも現場の状況に通じている。無線機を全車輌に搭載させるよう手配したのもグデーリアンだった。兵站確保を重視し、部下の勝利と無事の帰還を誰よりも喜ぶ。  軍隊は、他のどの組織よりも実力主義が徹底している。  信頼できない無能な上官に、生殺与奪の全権を預けたいと思う兵士はいない。命のかかった戦場では、家族よりも濃い絆が生まれることも珍しくない。貴族出身者が多い陸軍幹部の中で、司令官グデーリアンは平民の雄だった。 「緊張しているのか、ライス大佐」 「滅相もございません」 「貴君を責めているわけでは、ない。我々が預かっている兵士達のことを思えば、誰でも平常心ではいられんよ」  ソ連侵攻の可能性を提示されてから、ライスは参謀の一員として、寝る間も惜しんで作戦を練り上げてきた。  できる限りのことをしてきたとはいえ、いざ、自分の命令一つで麾下の兵士達の生死が左右されると思えば、自然と体が震える。将官として負うべき当然の責任だ。  しかも、今回のバルバロッサ作戦は、これまで関わってきた戦闘とは比較にならない規模のものだった。 「敵の赤軍は、こちらの動向に気づいていますかね」 「さてな。こそこそと潜りこんでくる諜報のすべてを防ぐのは困難だろう。得られた情報をどう扱うかは、司令官の技量次第だが」 「偵察に来た兵士を捕らえて尋問したところ、西部担当司令官の趣味は観劇だそうです。とある女優に夢中で、前線をろくに視察することもなく、毎晩飲み歩いているようです。今頃、高いびきをかいているかもしれません」 「どうだかな。末端の雑兵の言うことでは、真実か根も葉もない噂かはわからん。我が軍からも何人もの脱走兵が出ているしな。向こう側で、我々のあることないことを吹聴しているだろう。頭が痛いことだ」  五日前の日暮れ時、ライスはグデーリアンとともに、ブク河対岸に布陣したソ連西部特別軍の偵察へ赴いた。  赤地に黄色い星を縁どった赤軍の旗が、微風を受けて揺れていた。  ドイツとの不可侵条約を信じきっているようだった。くつろいだ彼らはろくに見張りも立てず、無防備で呑気な様子に見えた。旧式の戦車ばかりが目についた。訓練不足の兵に、戦術を知らない指揮官ばかりなのだろう。  現政権が成立する以前、ドイツとソ連の間では軍事交流が盛んに行われていた。  しかし、ドイツからもたらされた最先端の機動戦理論や効率的な部隊の運用は、スターリン政権による反対勢力の大粛清で抹殺された。将校らは処刑され、赤軍の近代化は頓挫したという。  弱小な兵力しか有していなかったフィンランドとの戦争で大きな犠牲を出し、ソ連はかつての軍事大国の面影を失っていた。 「スターリンは一体なにを考えているんですかね。意のままに動かないからといって、自軍の優秀な将校を切り捨てるなど論外でしょう」 「そうとばかりは言えんよ」  グデーリアンは口の端を歪めて、自嘲めいた皮肉な笑みを浮かべていた。それ以上を口にすることはなかったが、長く補佐に当たっていたライスには将軍の胸の内を推測できた。  我らが総統閣下も親衛隊を組織して、周囲を身内で固めている。  意見の異なる者を次々と更迭して、伝統ある国防軍の独立した指揮系統すら掌握しようとしている。  いまを遡ること三年前の1939年、ドイツはポーランドとの不可侵条約を一方的に破棄して、ソ連との間に新たに不可侵条約を締結した。ドイツによるポーランド侵攻をもって、第二次世界大戦の火蓋は切って落とされた。  1940年春、ドイツはノルウェーやフランスなどを次々と攻略。連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐していった。  1941年6月、北はフィンランド、南は黒海から、イタリア、ハンガリー、ルーマニアなどの枢軸国勢力を結集して、ソ連の領土へ侵攻しようとしていた。政府は共産主義の脅威からヨーロッパ文明を守る聖戦なのだという宣伝文句を用意している。  ソビエト連邦への奇襲攻撃、作戦名『バルバロッサ』。  かつての神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ一世のあだ名である『赤ひげ公(バルバロッサ)』を冠した作戦には、のべ三百万人もの兵士が動員されている。  史上最大規模の陸上作戦である。  フェードア・フォン・ボック元帥が率いる中央軍集団はブレスト・リトフスクを出発して、モスクワまでおよそ千キロの道のりを東へ進む予定だった。  ここには十五個機甲師団、三十個歩兵師団、航空機九百機が集中的に配属されている。  白ロシアといわれる地方には大河が流れ、平原と耕作地が広がっているが、障壁となる山脈はない。プリペット沼沢地の北側を通り、ビアウィストク、ミンスクを落とすことができれば、スモレンスク攻略も見えてくる。スモレンスクからモスクワまでは約三百キロだった。 「大口径の突撃砲が並ぶのは壮観ですね。赤軍の装備では、ひとたまりもないでしょう」  司令部の後ろでは、装甲部隊の主力である十五トン級の三号戦車、二十五トン級の四号戦車が揃って、出撃命令をいまかと待ちかまえていた。 「どうだろうな。砲を重視している赤軍の戦車と対峙して、どういう結果が出るかはまだわからん。ことによっては、主砲を50ミリの短砲身から75ミリの長砲身に変えるか、新型の高射砲を増やす必要があるかもしれん。あるいは、重戦車でないと太刀打ちできない、か。そもそも、戦車のエンジンにもまだ改良の余地がある」  司令官グデーリアンの独り言めいたつぶやきを聞いて、ライスは胸が熱くなるのを覚えた。  戦車に機動力と防御力の双方を持たせるのは、きわめて困難な課題だった。装甲を厚くすれば、躯体が重くなって速度が落ちる。深い泥や雪の中では進めなくなってしまう。  ライスたちが配属された中央軍集団では、二個の航空艦隊が先行して、赤軍航空機を爆撃、撃墜することになっている。  前線の司令部や国境の要塞、空港など、通信設備のあるところを破壊する。連絡不能にして一気に襲いかかる。国境守備兵が森林地帯に逃げこむ前に包囲して殲滅することで、敵戦力を無効化する。  バルバロッサ作戦が成功するか否かは、国防軍のこれからの働きにかかっている。 「なにか言いたそうだな、大佐」  グデーリアンは腕組みをしたまま、ライスを正面から見据えて言った。 「わたしがここへ来るのと入れ違いに、ワシ鼻に片眼鏡の男が出ていきました。……あれは、特別行動部隊(アインザッツグルッペン)の指揮官ですね」  一度見たら忘れられない。目つきが悪く、他人を値踏みするような冷たい表情を隠そうともしない、豚のように肥えた醜男だった。 「見ていたのか」  グデーリアンは眉間に深い皺をよせ、苦いものを噛みつぶしたように顔をしかめた。 「なぜ、特別行動部隊(アインザッツグルッペン)の駐留を許可したのですか」 「彼らに便宜を図るようにとの通達を受けている。移動と補給に不便がないように、とな」  特別行動部隊(アインザッツグルッペン)は、ドイツの保安警察と保安部によって組織されている。前線の後方にあって、敵性分子を排除する任務を帯びている。  構成員は忠誠を疑われる立場にある者、遅刻や居眠りなどでつるし上げられた者が大半だった。  軍法会議にかけられる代わりに、特別行動部隊への志願で免責とされる。非武装の相手を撃ち殺すのをためらっていた若者たちが、訓練によって熱狂的な殺人集団の一員に仕立て上げられる。  名誉と誇りを重んじる国防軍の気風とは、けして相容れない。 「彼らがしているのは殺戮行為です」  対ポーランド戦において、嫌というほど目にしてきた。彼らが東部戦線に配属されるならば、治安維持の名において、大虐殺が繰り返されるだろう。 「劣等人種やうす汚れた浮浪者、共産主義者どもを片付けているのだろう。我々国防軍には口を出す権限などない」 「連中が膨大な死体の山を築いているのは、将軍もご存知でしょう。ただの一般市民を、子どもを抱えて逃げまどう母親に銃を向けて穴だらけにするような、残忍極まりない連中です」 「民間人になりすました敵の諜報員かもしれない」 「奴らが、どれだけの人間を殺してまわったことか。あんなものは、戦争とはいえません」 「その件について、我らが元帥閣下はすでに、担当将校の処分を進言しておられる」 「上からの返答はないのでしょう?」  ライスが重ねて問うと、グデーリアンはため息で答えた。 「かつての軍隊は君主に属していた。いまの我々は国家と元首に忠誠を誓っている。この忠誠ゆえに、軍服と大義が与えられるのだ」 「だからといって、総統肝入りの彼らに対しても、わたし達は盲従しなくてはいけないのですか」 「軍服をまとっているから、最新の火器を手に、敵を一掃することが許されている。一私人であれば、ただの人殺しでも、戦場の軍人ならば英雄になる」 「もちろん、そうです。わたし達は敵の手から国民と国家を守るために、武力を与えられている」 「それが、我々軍人の存在理由(レーゾンデートル)だろう?」  闊達で英明な上官は、フランス語の発音まで完璧だった。  ライスは悪戯を見咎められた幼児のように顔をそむけて、抑えた声でつぶやいた。 「だからといって、無辜(むこ)の民を(むご)たらしく虐殺する理由にはなりません」 「誰を敵と認定するのか。それを決めるのは政府だ。我々軍人ではない」 「わたし達は軍人ですが、その前に国民であり、なによりも一人の人間です!」 「軍人たるもの、銃後の人々を守るためには、人間らしくない行為にも手を染めなくてはいけない。貴君とて、きれいごとだけを吐いて、大佐まで昇りつめたわけではあるまい」  ライスは強く拳を握りしめていた。  頭ではわかっている。  尊敬する上官を相手に自分がいま吐き出しているのは、単なる繰り言に過ぎない。硝煙と血の匂いに満ちた戦場に怯む新兵の泣き言と同じだ。  だが、理性ではわかっていても、どうしても気持ちがついていかない。自分一人の腹の中に収めることができない。  自分達は、栄えある国防軍である。残酷で無分別な殺戮行為に加担することなど、あってはならないはずだ。 「軍人が責任を負うのは、前線についてだけだ。後方については管轄ではない」  グデーリアンの教条的な見解を聞いて、ライスは深くうなだれていた。  この国は、どこへ向かっているのか。  第一次大戦に敗れ、締結されたヴェルサイユ条約ではドイツの戦車や潜水艦、航空機の保有を禁じ、兵力規模を十万人に制限していた。  条約の無効を訴え、民族の繁栄を唱え、強く美しい国家を建設しようと説く、髭の総統閣下はどんな世界を夢見ているのだろう。  イギリスやアメリカのような大国を敵にまわし、同時にソ連と戦争をするのは無謀だ。ある程度の情報に接している者ならば、誰の目にも明らかだった。総力戦とはいえ、資源にも、人的資源にも限りがある。 「貴君は牧師の家に生まれたと言っていたな」 「家は関係ありません。わたしは父の後を継がずに、軍人になったのですから」  神とは、人の営みとは遠い場所にあるものだと、ライスは思う。  飢えて、血を流し、病に苦しんでいても、いかなる手も差し伸べられはしない。  人を救うのは人だけだ。  ギムナジウム卒業後は、神学校へは行かずに従軍するという息子の決心を聞いて、年老いた父は悲嘆にくれた顔を向けた。だが、なにも言わなかった。深く頭を垂れて、一心に祈りを捧げているだけだった。 「ライス大佐。貴君はいつから、政府の指令を批判できる地位を手にしたのかね」 「そういうことではありません!」 「貴君は以前、陸軍大学で教官をしていたな。軍の中においては、指揮系統は絶対だと教えたはずだ。いまの君は、大原則を覆すことができるだけの権能を有しているのか?」  軍人である以上、いかなる理由があれど、軍事命令に従わなければ国家への反逆となる。 「君は数々の作戦立案に関わってきた。参謀という立場で、少しばかり多くの情報に触れたからといって、大局を論じることができると考えているなら、思い上がりも甚だしい」 「将軍!」 「いいか。組織の歯車である我々は、命じられたことを遂行するのみだ。拒むというのなら、退役か、死か、どちらかを選ぶことになる」  上官に諭されるまでもなく、当然のことだった。 「ライス大佐。君はまだ若い。自分の意見を通したければ、組織の中枢へと昇りつめることだ。君の卓見と能力をもってすれば、参謀総長の椅子も望めるだろう。だが、目先のことに囚われて選択を誤れば、断頭台が待っているぞ」 「それは、買い被りです。わたしなど、まだ未熟な若輩者に過ぎません」 「軍人にとって、過小評価は美徳とは言わんよ。私にできることは、君ら若手が台頭するまで、この国の存亡をかけた戦いに死力を尽くすことだ。手始めに赤軍の航空基地を潰して制空権を奪う。一機たりとも出させはしない。高速機動部隊で一気にモスクワまで攻めこむことができれば、我々にも勝機はあるだろう」  ライスは息をつめて、目の前の将軍を仰ぎ見ていた。 「時間だ」  グデーリアンは振り返ることなく、司令部をあとにした。呆然としていたライスは我に返ると、小走りで上官を追いかけた。  司令官は待機している部隊を一瞥すると、低い声で命じた。 「全戦闘員、配置につけ」  1941年6月22日、月曜日、午前3時。  この時刻をもって、独ソ不可侵条約は破られた。  ドイツ国防軍、中央軍集団はソビエト西部特別軍管区の各軍に襲いかかった。  先遣隊として、次々と航空機が発進していく。すぐさま爆撃が始まり、オレンジ色の炎が敵陣を舐めるように広がっていく。  その後から、キャタピラを響かせて戦車部隊が出撃する。大砲の轟音が吼える。  上官の脇に直立したライスは、目の前に広がる戦場を無言で見守っていた。  東部戦線では、ドイツ軍八十七万、ロシア軍三百万を超える将兵が失われた。  バルバロッサ作戦は、第二次世界大戦で最大の犠牲者を生むこととなった。
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