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1.
お手伝いさんには「仕事をするから書斎にこもる」と言ったけど、本当は仕事なんてしていない。寒い季節でもないから、風呂上がりに薄いシャツを一枚引っ掛けて、ポットにはたっぷりお茶を入れて、温めておいたカップも一緒にトレイに乗せた。で、たいしてしゃれてもいない便箋を引っ張り出して、きみにこんな手紙を書いている。
なぁ、今度はいつ逢える?
この前、別れ際にそれを訊いた時、はぐらかすように「どうしようかなー」ってニヤッと笑ったきりだったろう? しぶとく食い下がってもハッキリ答えないうちにきみが乗るバスがやってきて時間切れ。こっちはもう、走り去るバスに向かって手を振りながら鼻水をすするので精いっぱいだった。
なぁ。わかるかい?
一昨年よりも去年。去年よりも今年。年齢を重ねていくうちに人間っていう生きものはどんどん臆病になっていくんだよ。きみはまだ若いから、そんなこと思いもよらないだろうけれどね。
そうそう。さっき資料を探そうと思って本棚の横に置いてある段ボール箱をあさっていたら、古いCDが一枚紛れ込んでいるのを見つけた。それが素敵なタイトルで、思わず次に書く小説のネタが降ってきたんだよ。ほんの少しだけどね。 パリ、ミラノ、アムステルダム。そんな感じで三つの都市の名を点でつないだタイトルのアルバム。たしか旅が好きだと言ってた歌い手さんだから、その街のことや、そこに滞在しているときに見たもの、感じたことや、その街で嗅いだ匂いや食べもの。その街で思い出した誰かのことや、自分のこれまでのこと、そんなことを歌にしていたんじゃなかったかな。
なぁ。もしもきみがいやじゃなかったら、今度の小説では、きみにそんなふうにいろんな街を旅してもらって、いろんなことを経験して、……そんな話を書いてみたいんだけど、どうだろう? きみは、すれ違う誰もが振り向かずにはおれない美少年。いや美青年か。行く先々のいろんな街できみに恋する人が現れるけど、きみは誰にも心を許さない。あっと、もちろん身体も。だって、きみには僕という恋人がいるんだから。遠く離れたこの国で、僕はきみの帰りをずっと待っている。
……ん? 待てよ。別にひとり寂しく待っていなくたって、僕ときみとで旅行へ出かけたっていいのか。その国の、どの街のホテルのベッドがいちばん寝心地が良いかをリサーチする旅。なんてどうだい?
あぁ。でもそんな旅に出たらきっと、小説なんて書いている時間もないぐらいきみとくっついていたいし、話していたいし、美味しいものを食べたい。きみを膝に乗せて、その薄くて乾いた唇に何度もキスしてみたい。僕らが一緒にいられる時間なんてそう長くはないんだから、ふたりでいる時は、その時にしかできないことをして楽しまなきゃ。
けど、困ったな。そうなると、次の新作はどうしたものかな。ふたりの旅行記なんか書いたところで、ただの色ボケた初老のオヤジが若い男に振り回されて、それでもいいやなんてにやけてるタダののろけ話にしかならないだろう。そんな背中がかゆくなるようなものを誰が手に取る? まぁもっとも、ふたりでいる時にしか見ることのできないきみのあんなことやそんな表情、たまらない気持ちでいっぱいになる仕草のあれこれを世にさらす気なんて毛頭ないんだけれど。
ええと、だから。
次に出す新作だ。
いや、そんなものは、きみと旅している間に考えることにするよ。きみと一緒にいる間、僕の頭は素晴らしく冴えて、きっとびっくりするような、ふだんこの部屋にいる時には絶対に浮かんでこないようなアイディアが湧くに違いない。
そうと決まったら、さっそくスケジュールを確認しなければならないな。もしかしたらこの手紙よりも先に、「なぁ、来月の今頃の予定はどうなってる? できれば一か月ぐらい空けておいて欲しいんだけれど」って電話してしまうかもしれないな。
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