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「――と、いうわけです」  それから数十分後、僕は駆けつけた救急隊員が現場を確認して、その通報によりやってきた警邏中だったパトカーの中で、事の次第を説明した。  といっても説明することは特にない。  僕がゴミ捨て場にやってきた時、付近にはほかに人影はなかった。  具体的にどのようなことが起きたのかまでは判断しかねるが、おおかた彼女が足を滑らせて、後頭部を壁にぶつけたのだろうと考えた。  救急通報した僕は、最初の衝撃から冷めて、彼女や周辺の様子を観察する余裕が生まれていた。  名無しの少女は、壁の血液に目をつぶれば、まるで眠っているように見える。  美人と形容できる顔立ちをしていた。ショートカットの仄かに茶色がかった髪。細い眉、閉じた瞳に、それでも存在を主張するかのような長い睫毛。小作りな鼻梁。すぼめた形の唇は、ちょっとセクシーに思える。  身長は、壁に身を預けて倒れているので分かりにくいが、おそらく百六十センチ前後だろう。  紺色の上下の制服に、緑と紺と白の線が交叉するネクタイを締めている。  ここからバスで二十分ほどのところにある、県立高校の制服だ。  街灯の白い光が煌々と照らすその下、薄汚れたコンクリートに囲まれたなかで、目を瞑る少女。これだけなら、水彩画にでもなりそうな趣があったが、コンクリートをぬらぬらと赤黒く濡らす血液が台無しにしていた。  当然ながら、僕は彼女に一切、手を触れなかった。後頭部を強く打ちつけていることは明らかで、医療知識がない僕でも、下手に触れたらうまくないことは分かっていた。  その判断は正解だったようで、到着した救急隊員は慎重な手つきで彼女を収容した。  彼らはすぐに一一〇番通報、身元確認、彼女の容態のチェック、受け入れ先病院の選定といった諸々の措置を取った。  交番から地域課の巡査が到着するのと、警邏中のパトカーが駆けつけるのは同時といって良かった。身元は、制服の内ポケットにあった生徒手帳から判明した。一番近い病院が受け入れを了承したので、生徒手帳を刑事に預けると、救急車はそこへ向かって発進した。  刑事は、現場保全を巡査に任せると、僕をパトカーの後部座席に押し込んだ。自身も隣に座る。 「お前は疫病神か? 何度事件に巻き込まれるつもりだ」  刑事、刑事と呼ぶのもよそう。  この男、松田翔一郎。N警察署刑事課巡査長は、僕の数年来の友人だ。 共通の友人を介しての邂逅だった。初めて会ったのは、僕が大学二年生、彼が三年生の時。学年は違うが年は同じだ。その原因は、僕が一浪したことによる。 彼とは互いが学生の頃から何度も事件に介入し、その解決に立ちあってきた。解決するのはたいてい彼だった。彼は運命的に探偵、いや、探偵役であることを背負わされているのだと思う。僕は推理小説でいうところの、ワトソン役に納まるか、依頼人になるか、ときにはできの悪い警部のような立場になることもある。 探偵役、それも名探偵であった彼が、よもや警察官になるとは思わなかった。 幼い頃から一貫して野球に打ち込んでいた彼は、小麦色の肌がトレードマークだ。警察の職に就いて以来、前より色が薄くなった気がしなくもないが、健在である。黒く短い癖がある髪、広い肩幅に、全体的に筋肉質な体型。柔和な眼に時折鋭い光が宿るのは、探偵らしくもあり、警察官らしくもあるが、それはきっと長年投手として活躍してきたからこその物だと思っている。 「バカなこと言っている場合じゃあないでしょ? これは事件なのか?」  彼は至極真面目な心情の元で発言したらしいが、それは心外である。 「事件性はある、と俺は見ている」  僕は彼の返答が意外だった。事故だと考えていたのは先程述べた通りだ。 「なんでだ? 後頭部以外に外傷はない。壁にはまだ乾ききっていない血液……」  ほら、と僕は壁の液体を指す。 「彼女が後頭部を壁にぶつけたのだろうということはいい。だがお前は気づかなかったのか? 制服が乱れていることに」 「言われてみれば確かにそうだけれどさ。乱れているったって、たんに皺になっているとか、ネクタイが曲がっているとか、その程度じゃあないか。普通に生活していても生じる瑕疵だろう」 「じゃあ、彼女が持っているべき物が見当たらない、と言ったらどうだ」 「そんな物……あっ」  今日は平日である。制服を着ているということから学校帰りだろう。 「バックがない?」 「そう、その通り」 「救急隊員が持って行ったということはないの」  僕は、事件であることを認めたくないというわけでもないのに、反駁を試みた。 「ない。持ち物は生徒手帳とスマホだけだ」 「……なるほどね」  僕は腕を組んで座席に身を沈めることで、負けを認めた。 「もしかしたら、彼女が頭をうったことは事故かもしれないぜ? しかし、それがひったくりと争った末か、気絶しているところを救助されずに荷物を持ち去られたのかは分からないが」  遠くから幾重ものサイレンが聞こえてくる。  本格的な捜査が始まる……。
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