序章

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序章

 鬱蒼と茂る暗い森の奥で、二人の人物が緊迫した様子で話している。 「君だけでも逃げるんだ」  黒に近い焦げ茶色の髪の背の高い青年が、もう一人の小柄な少年の肩に両手を置きながら言った。 「駄目だ! 貴方も一緒じゃないと、俺も逃げないっ!」  少年が泣きそうな顔で首を左右へ振り、嫌だと涙目で伝えるが、青年はその優しそうな顔を寂しそうに歪ませる。 「私は駄目だ。……いや、残りたいんだ。この世界を捨ててはいけない」  地球。  それが二人の本来の居るべき世界であり、故郷だ。  およそ3年前に「神子」としてこの世界に召喚された二人は、今日まで互いに励まし合い生きてきた。  辛いことも嬉しい事も共有し、二人はまるで実の兄弟のような関係を築いたのだ。 「貴方はお人好し過ぎるっ! そこまで貴方が義理を立てる必要なんてないはずだ。勝手に俺たちをこの世界に連れてきて、その上使い捨てられるなんて、おかしいじゃないか!」  少年は、その儚くも端正な顔を怒りで歪めながら、青年の襟首をつかむ。  しかし、体格差から青年の身体はびくともしない。  青年も、この世界の住民と比べると決して大柄ではないのだが、この世界どころか地球の平均身長と比べても明らかに小柄な少年に力で負ける事はあり得なかった。  青年は困った様子で少年を見て、微笑んだ。 「……そうだね。私もさ、聖人じゃないから、君の言う通りだと思うし、腹立たしいとは思ってるんだよ。でもね、この世界で私の事を守ってくれた人たちを捨てていく事は出来そうにないんだ。絶対に後で私は後悔してしまう。やっぱり、長く一緒に過ごしたからかな。彼らは私にとってはもう友人であり、家族みたいなものなんだ」  そう言いながら、青年は遠くの空へと視線をやった。  空は、暗く淀んでいる。  二人がこの世界にやって来た頃は、まだ空は青かったけれど、ここ1年の間は久しく青い空を見ていない。  それはこの世界が終焉へと近づいている証だ。 「……貴方は、この世界に来てから辛い事ばかりだった筈だろ? そりゃ、宰相や王様は優しかったかもしれないけど……っ」  見目麗しい少年への周囲の態度は、概ね最初から好意的だったが、垢ぬけていない素朴な雰囲気の青年に対しては、この世界の住民は厳しい態度を取っていた事を思い、少年は眉を寄せた。  傷つけられることこそなかったが、彼らの態度はかなり少年にとっては不愉快なものだったのだ。  後にその失礼な態度は大幅に改善されたものの、外見至上主義者はそれでも依然残っており、今現在も陰で言う奴は悪意ある言葉を言うのだから始末に負えない。  そんな奴らを守る行動を取るなんて、少年からすれば青年の考え方は理解しがたい感情だった。 「うん、確かに私への対応は、正直杜撰だったね。けれど、優しい人は居たし、最初は冷たかった人も後に優しくしてくれるようになったから、そのこと自体はもう私の中では良いんだ。それに残りたいのは、私の勝手な気持ちだよ」  青年は言い聞かせるように優しく自身の襟首から、少年の手を離させた。  青年は言う、守りたいのは一部の人だけなのだと。 「私の好きな人だけを助ける事が出来るなら、私もそうしていたんだよ。でもね、彼らはこの世界の他の人たちを見捨てる事なんて出来ないからね。普段は強気で傲慢なのに、あの人たちはここぞと言う時には真摯な人たちだから……」  青年の瞳には一切の迷いがなかった。 「あの人たちの為に、貴方は自分を犠牲にすると……?」  状勢は日々悪化していき、現在では予断を許さない状況にまで追い込まれている。  いくら神子として持て囃されていても、所詮は異世界の住民であり余所者である二人の事を利用する者は多い。  親しい人たちが出来る限り便宜を図ってはくれたものの、それらすべてを跳ねのける事は難しく、二人が持つ生命力は、この世界の為に日々消費されていた。それは、時として命までもを奪う事がある。  現実、既に神子だった人間が、二人の目の前で死ぬところを見たのだから。  このまま留まれば、使い捨てられるのは明白であった。  だからこそ、逃げる事を選ぼうとしているのだ。 「やだな。まだ私が死ぬだなんて、決まってるわけじゃないよ? 縁起でもないな」 「だけど……!」  青年は苦く笑って見せると、ふと真剣な表情で少年を見つめた。 「聞いて。君はまだ子供だから、私のように決断できなくていいんだよ。君は自由に生きていいんだ。逃げる事は、決して罪ではないんだからね。元の世界に還れるかは分からないけれど、君にはどこまでも逃げてほしいと私は思ってるんだ」  元の世界で高校の教師をしていた青年からすれば、少年は、教え子の年齢よりも幼い。  たとえ少年が、死と隣り合わせのこの世界の住民と比べても、遥かに高い能力を持っていて、【神童】として言われていようと、そんな年齢の彼に、過酷な決断を迫るなど考えるはずも無い。  これ以上、少年の手を血で汚したくはなかった。  強気で我儘だと言われていた少年だけれど、心根の優しい子だという事を青年は分かっていたから。 「それにね、中途半端な覚悟は迷惑でもある」  青年の厳しい言葉に、少年はびくりと肩を震わせた。  少年は、悲しそうに唇を噛み締めて下を向く。  青年はその表情を見て、一瞬表情を曇らせたけれど、下を向いている少年は気づかなかった。 「……さぁ、行って」  少しの間をあけて、青年がそう木の影へと声をかけると、一人の屈強な身体つきの男が現れる。 「あ……っ、なんで」  この場所に本来居るはずのないその姿を見て、少年が動揺の声を上げた。  旅をする衣装に身を包んだ赤髪の男は、二人の姿を見た後、少年へと近づきその腰を抱き寄せる。 「ちょっと、触るなって!」  少年は抗議の声を上げるが、男は意に介さなかった。 「一人では逃げきれないからね。彼なら、君を絶対に守ってくれる。……だよね?」  男は信頼のできる優秀な男だった。  とある出来事から、少年との間には多少の距離はあったけれど、何より男が少年を大切に思っている事は分かっている。  少年が意地を張っても、たとえ辛く当たったとしても、男は絶対に少年を裏切らない事を、青年は確信していた。 「ああ」  男は、青年の言葉に深く頷くと、じっと青年を見つめた。 「……陛下を頼むぞ」 「……分かった」  男と青年は、拳をガツンと互いに合わせ別れの挨拶をすませる。 「……っ、待って! まだもうちょっとだけ! おい!やめろ!」  男は暴れる少年を力業で抱え上げて、青年へと背中を向けた。  どんなに少年が力を込めて男を叩いても、男は全く動揺せず、そのまま用意していた己の馬へと少年を括り付けてしまう。  長い時間この場所で騒げば、他の者に気づかれてしまう以上、素早い離脱が求められる。  青年は、何を言ってもここを離れるつもりがないのだから、男の判断は正しかった。 「……っ、―*:::!」  素早く馬に跨った男が馬の腹を蹴ると、馬は高く嘶きながら、男が示す方角へと走り出した。  少年が悲痛な声で何かを叫んだが、風の音にかき消された。  青年は、去っていく二人の姿をその目に焼き付けるように、じっと見つめ、ひらひらと手を振った。 「……さよなら」  掠れた青年の声は、もう二度と会えない事を理解している、そんな響きを持っている声だった。   この一か月後、青年はその命をこの世界の為に捧げ、世界はつかの間の安寧を得る事となったが、それが恒久的なものではない事を、人々は理解していた。 ――青年の命で得られた平和は、やがて失われ、世界が再び闇へと閉ざされる日はやってくるのだ、と。
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