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翌朝、林の中にそびえる屋敷を眺めながら、鬼は溜め息をついた。
二日酔いである。
しかめ面をした鬼の隣に、にやついた天狗の顔がある。
あれから朝までの記憶はない。気がついたら夜が明けていたのだ。
もちろん布団に寝ていたのは鬼一人だけだった。
「楽しめたか?」
天狗が面白そうに言ったが、何を、と聞き返すまでもない。
「知ってたな」
「まあな。ほらほら、うちと狐たちは、持ちつ持たれつだからさ」
鬼はあきれて、鳥居の真下にずらりと並ぶ狐面たちを見た。
日に照らされ一層鮮やかに見える朱色の鳥居を、来たときとは反対方向にくぐると、途端に狐の屋敷は姿を消した。
いや、消えたように細工をしてあるのだろう。
そうやって、人の目をかいくぐって暮らしている者たちは、他にも大勢いるのかもしれない。
林の中で、鬼たちと狐面たちは向かい合わせに並んでいる。
「試すような真似をしたことは、お詫び申し上げます。しかし、長にとっては一番可愛い末姫様。もちろん私どもも、末姫様をいい加減な奴のもとに嫁がせるわけにはいかないと」
「だからって、なんであいつなんだよ」
捲し立てる狐面の言葉に被せるようにして、苦い顔をした鬼が呟いた途端、末姫の耳がぴんと立った。
「お知り合いだったんですか?皆の話だと、万が一が無いよう適当な者に頼んだから大丈夫、と」
意外と早口だ。実はこんなによく喋るやつなのか、と感心しながらも、鬼は何も答えられない。
「確かに適当だったな。ふさわしいほうの意味で」
天狗が、鬼に変わって話を引き取ると、鬼は激しく狼狽した。
「まあ、それでも何事もなかったんだから、晴れて夫婦ってことで良いですかね?長!」
話をやや強引に収束させるかのように、空に向かって天狗が大声で呼び掛けると、一陣の風が起こった。
「おやじさん、泣いてないか」
「泣いてるわよねえ」
しみじみ言う天狗たちの横で、狐面たちもすすり泣いている。
無理もない。可愛がっていた末姫が突然よそに、しかも鬼のもとへ嫁ぐというのだ。
そこで、婚儀は形式的に執り行ったが、鬼が本当に末姫を大事にしてくれるかどうか、他の女をけしかけて試そうとしたのである。
これは、鬼以外の全員が知っていた。天狗も、末姫もだ。
末姫はもちろん反対したが、長に泣かれては了承せざるを得なかった。
あの、大広間での末姫の詫びはこのことだったのである。
腑ふに落ちたような、納得いかないような、とにかく女に手を出さないで良かったと鬼は深く息を吐いた。
「やっぱりお嫌ですか?」
遠慮がちに末姫が問うが、その視線は鬼ではなく自分の胸元に向けられている。
鬼は、なんとも複雑な気持ちになった。
「俺は、そんなに胸のことしか頭にないように見えるのか?」
「見えるから試されたんでしょ」
烏天狗が、豊満な胸元で腕組みしながら、にべもなく言った。
ざざっと、もう一度風が吹く。
「早く行かないと長が連れ戻しにくるぞ」
天狗が大真面目に言ったが、本当に洒落にならない。
大仰な婚儀とは打って変わって、では、と双方軽く頭を下げ、その場はお開きとなった。
末姫の荷物が入った行李を軽々と担ぎ、鬼は天狗たちにも手を振って、自身の住みかがある低山に足を向ける。
「歩けるか」
はい、と答え、末姫は鬼の半歩後ろを健気に歩いている。
一度だけ振り向いたが、すでに狐面たちの姿はなかった。
「いいのか」
鬼が前を見たまま言う。
何がですか、と末姫が聞き返す。
「俺はずっと一人だから、夫婦がどんなものかわからない。誰かと暮らしたことすらない」
末姫の歩幅に合わせて、ややゆっくり山道を歩く鬼の横顔は、困惑しているようだった。
「はい」
同じく前を向いたまま、よく通る声で末姫が言った。
「寝床も食事も無頓着だし、あの屋敷とは雲泥の差だぞ」
「はい」
ちょっと可笑しそうな、明るい声音が真横からきこえた。末姫が一歩を大きく踏み出して、鬼の隣にならんだのだ。
「一緒なら、どこでも」
目が合った。
そして、二人で破顔した。
後日談
「ところで…昔、何があったんですか?」
「…なんのことだ?」
「とぼけないでください。あの、豊満な方が…その…」
「…まあ、もう昔の話だからさ」
小屋の中に、文字通り雷が落ちた。
狐の嫁入り・了
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