1.狐の嫁入り(前編)

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足元の金属音で、我に返った。 鬼が直前に足を踏み込んだ草むらに、小動物用の罠が仕掛けてあったのだ。 幸い、草が沈む反動により仕掛けは勝手に作動し、鬼の足先から半歩前で、すでにかっちり歯がかんだ状態で転がっている。 「ふもとの人間か?こんなところまで入りこむのか」 人間たちは、先人たちが踏んで固めた道を辿(たど)ってくる。道が途絶えたら、大抵はそこで折り返すのだ。 “鬼”が()むから、奥には行くなよ。 もうかなり前に、狩りの途中で道を()れて迷い混んだ村人が、景気付けのように口ずさんでいた言葉を復唱してみる。 村人は、山の斜面を踏み外して自ら命を絶った格好になったが、鬼に喰われたことになってるんだよねえ、と、やや遠慮気味に天狗が教えてくれた。 似たようなことは度々あった。 不意に思い出し、彼は無意識に苦虫を噛み潰したような顔になる。 考える前に、力任せに仕掛けを蹴っていた。 草履(ぞうり)が勢いよく飛び、しまった、と思ったが、直後に、仕掛けと草履が消えた方向から甲高い音が聞こえた。 いや、声だ。人ではなく、動物の鳴き声。 慎重に草むらを進むと、小さな茶色い毛の塊が見えた。 そして、尖った耳。 「こぎつねか?珍しいな」 屈んで問いかけると、狐は慌てて後退(あとずさ)りをしようとし、次の瞬間、体を硬直させて悲鳴をあげた。 仕掛けが、狐の足にはまっていた。 鬼の視線が厳しくなったのを感じ、反射的に身を(ひるが)えそうとした狐の体は、気づけば仕掛けごと、鬼の大きな手の中に収まっていた。 不安そうな狐の顔は見ず、鬼は険しい表情のまま、近くの大岩に狐を乗せる。 そして、狐の足にはまっている仕掛けの両刃をそれぞれ握ると、力任せに開いた。 「よし」 からん、と、仕掛けが地面に落ちた。少しだけ赤く濡れているのは、鬼の手のひらの血のせいだ。 だが、袴で無造作に血を拭うと、すぐ狐に向き直った。 細い獣の足を見ると、仕掛けの金具と擦れたあとはあるが、刺さった様子はなかった。 「お前、小さいから仕掛けの隙間に上手くはまってたんだな。これぐらいならすぐ治るだろ。良かったな」 鬼は、鋭い犬歯がむき出しになるくらい、満面の笑みを浮かべている。 そして、おもむろに(たもと)を裂き、不思議そうに見上げる狐の足に、器用に結びつける。 「これでいいな。この辺りは人間はあまり来ないはずだけど」 軽く狐の頭を撫でた。 「お前みたいな小さいやつらも、あまり来ないけどな」 一瞬間を置いて、きょとんとしている狐に笑いかけた。 「安心しろ、喰ったりはしないよ」 鬼は続けた。 「俺は、無駄な殺生はしないからさ」 そこで言葉を切った鬼を、狐は、じっと見つめている。 目付きも鋭く口も大きい。 着物を簡単に引き裂けるような手と爪もあるが、狐に触れる手つきは拍子抜けするほど優しかった。 狐は、今しがた手当てをしてくれた鬼の腕に尻尾を巻き付ける。 鬼は少し驚いた。尾が三本あるのだ。 三重の温もりが腕に伝わる。 こんな風に、初対面の動物のほうから触れられるのは初めてかもしれない。 顔見知りになった物も多いが、それでも、山道で突然鬼に遭遇すると、動物たちは驚き即座に退散するのだ。 獣の肌触りは慣れないが、悪くはない。 狐はなおもじっと鬼を見つめている。怪我はたいしたことが無かったから、もう自力でどこへでも行けるはずだ。 鬼はおもむろに立ち上がり、狐を優しく抱き上げ小さな体に顔を埋めてみた。 くすぐったそうに身をよじるが、逃げる気配はない。 久しぶりの温もりを感じながら、鬼はその場に座り、大岩を背にして、しばしまどろんだ。 半刻ほど経って目を開けても、狐は変わらず腕の中で目をつぶっている。 ありがとな、と声をかけた。 狐が少し顔を上げて何か言ったようだが、頭上の烏の鳴き声にかきけされた。 「あ」 我に返った。天狗を待たせているのだ。 しかし、ここに狐を置いていくわけにはいかない。 複数の尾を持つ狐の一族なら、山を下っていき、出会った獣に聞けば何かわかるだろう。 鬼は、狐を抱いたまま立ち上がり、大股で木の間をすり抜けていく。軽く竜巻が起こり葉が舞い上がった。 枝葉を巻き込みながら勢いよく進む鬼の腕の中で、狐は安心したように丸くなっていた。
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