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それから数日、数週間と、天狗の家に彼女は通い、昼間行動をともにした。
そう。あくまで「昼間の」行動である。
要は、朝、家に集合して一緒に出発し、一緒に山を巡回して、解散。たまに、鬼との対局の審判も務めている。
そんな色気のない毎日を、あれからずっと過ごしているのだ。
「もったいねえ!!」
鬼が叫ぶのも、もう何度聞いたかわからない。
「もったいない!!」
彼女の姉も同じことを繰り返し言っている。
しかし、彼がこの距離を保っているかぎり、自分から誘えるわけもないし、そもそも誘うべきなのかわからない。
ただ、居心地の悪さはなくなっていた。
「行くぞ」
促されて、天狗のあと彼女もからついていく。
山の上から、ふもとを眺めると、人間たちが畑仕事をしているのが見えた。延々と続く、平穏な暮らしだ。
「なあ、天狗って、山から降りて何やってんの?」
10年ほど前だったか、かくれんぼの途中で幼い鬼に聞かれたことがある。
同じように幼かった彼女にも答えられなかったが、さすがに跡取りである彼は、5、6歳ながらもすらすらと答えた。
「人々を威嚇したり、ちょっと雨とか風を起こしてさ、天狗がいるって教えてるんだよ」
そうすると、人間は天狗に畏怖の念を持つから。
天狗の、まるで父親の言葉を丸暗記しているかの言葉に、ふうん、と鬼は相づちを打ったが、納得していないような顔をしていた。
「何で怖がらせるんだよ」
「怖がらせたほうが、言うこと聞くだろ」
子供の会話だが、内容は真剣だ。
「それで言うことを聞かせて、楽しいのか」
よくわからない、というふうに鬼が言う。
「俺は人を怖がられせたつもりはないのに、みんな、俺を怖がるし何も聞こうとしない。鬼だから、怖いから退治するって言うんだ」
天狗は押し黙った。
「でも、脅して遊んでも楽しくない。怖くないってわかれば、ちゃんと一緒に遊べるのに」
単純明快だ。
しかし、一度複雑に絡み合ってしまうと、ほどくのは困難だということも、天狗も彼女も、幼いながら理解していた。
「姉さんは」
天狗の言葉で、急に現実へ引き戻された。
「誰か好きなやつはいなかったの?俺との話を聞く前にさ」
予想だにしないことを突然聞かれたが、天狗の顔は、遠くの山々を向いたままだ。
「…ええと」
しどろもどろになり、結局答えられず黙ってしまった。
あんたは、と聞き返す前に、彼がゆったりとした口調で言った。
「俺はずっと、好きだったんだけどなあ…」
風が吹いた。
誰かが起こしたのか、ふもとにも届いたそれは、人間たちがたった今収穫した農作物をいたずらに巻き上げる。
ただ天狗の羽団扇のひと扇ぎに、眼下の人々が翻弄されているように、彼女もまた、彼の呟きひとつに何故か気持ちを乱される。
柔和な横顔を見つめた。
誰を、と聞くことはできなかったし、天狗も黙ったままだったので、結局話は立ち消えたまま、二人は帰路についた。
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