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1.狐の嫁入り(前編)
葉桜の間から、朝日が漏れている。
日の光に照らされた赤い髪の隙間から、切れ長の目が眩しそうに外を見る。
ゆっくりと起き上がり伸びをすると、やや頭を下げて開け放したままの戸口をくぐり、外に出た。
精悍な体つきに、若葉色の着物と葡萄色の袴。それだけなら山の景色によく馴染む。
人里から離れてはいるが、全く人間が立ち入らないわけではない低山。その、すでに誰が建てたかすらわからない小屋が、彼の住処だ。
「鬼、起きてるか」
ふいに声がして振り向くと、1羽の烏が小屋から10歩ほど離れた木に止まっているのが見えた。
「起きてるならうちの山に来いよ。将棋を指そう」
うちの山、というのは、彼がいるこの山の隣にそびえている、天狗山のことだ。
どこが山の境目かはわからないが、ふもとの村人たちが「天狗様の山」と崇め、定期的に供え物を持って参拝するので、彼も山道を越えて相伴にあずかりにいく。
烏の声の主は、天狗山の跡取り天狗だ。
物心ついた時にはすでに山に1人きりだった彼は、自分の名前を知らなかった。
普段は誰と話すでもないから、呼び名がなくとも不便はなかったが、たまに山奥まで迷いこんだ村人は、突然出くわした赤い髪をした子供のことを、決まって「鬼」と呼んだ。
それは不快な響きを伴っていたが、彼は、少なくとも自分を指している言葉だとはわかった。
だが、何か問いかけようとしても、人は彼を攻撃しながらさらに大声で言葉を投げ掛けてくる。
山奥に赤い髪をした子供の鬼が出るらしい、という噂は村に広まり、天狗山へ、鬼の退治を祈願するものが出てきた。
そしてあるとき、大天狗と子供の天狗が、山奥で一人佇む彼の前に降り立った。
大天狗は、彼の赤く長い髪の隙間から見える、骨のような突起に触れる。
両こめかみの少し上から外側に伸びる2つのそれを、大天狗たちは角だと言った。
着物ともぼろきれともつかない物を纏ったいでたちの彼に、あらかじめ用意していたらしき、若葉色の着物を渡す。
「遊ぼう」
大天狗の腰に差してある団扇の陰から、小さい天狗が言った。
目線がほとんど同じ赤い髪の彼に、興味を持ったのだろう。
彼は何を言われているかわからなかった。
しかし、それは彼が今まで聞いた人間の怒号や罵声とは全く異なるものだった。
それから自然と、天狗たちとは互いの山を行き来するようになり、言葉も覚えた。
将棋を教えてくれたのももちろん天狗だが、なかなか勝てないんだよなあ、と、苦笑して前回の対局を思い出しながら、山道を悠々と歩いていく。
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