子離れしろだなんて言わないよ

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7月も半ばをすぎると梅雨も明けて、いよいよこれから夏本番を向かえる。アスファルトには強い日差しが照り付けて、真っ黒に日焼けした下校途中の子供達ですら、さすがに参った様子で帰路についている。その行列を横目で追いながら信号待ちをしている女が、交差点の向かい側に立っていた。女は、日よけ帽子をかぶり、首にはタオルを巻いて、背中にリュックを背負っている。 また来たのかよー。もう来なくていいって何度も言ってるだろ。こっちでの生活にもだいぶん慣れたし。寂しくもないよ、友達もいるから。さすがに結婚はしてないけど、好きな人くらいはいるんだ。 この交差点は交通量が多いことで知られている。耳障りな車のエンジン音が、うっとうしい蝉の声をかき消している。エンジン音が一瞬途絶え、蝉の声が耳につくようになったかと思うと、信号の色が変わる。目の前の信号が青になっても女はすぐには足を動かさず、左右をしっかり確認してから横断歩道を渡り始めた。 母さん、また皺が増えたんじゃないか、もう年も年なんだから、ここにしょっちゅう来るのはやめてくれよ。来るだけでも大変だろうに、来たら来たで長居しちゃうだろ。母さんの体のことを心配してるんだぞ。今日なんかも、こんなに暑くて、熱中症になるんじゃないかと心配でな。 女は無事に横断歩道を渡り切ると、車道側の角に寄って行き、ガードレールの方へ体を向けてしゃがみこんだ。女は一度手を合わせると、今度は背負っていたリュックから何かを取り出し始め、それらの物をガードレールの傍らに一つ一つ丁寧に並べていった。 あれ、またそんなもん買ってきたのかよ。そんなもの売ってる店どこで見つけてくるの?確かに、子供のころは、それをよくねだっていたけど、俺ももう大人なんだよ。この年で、そんなもの喜んで食べる奴なんていないよ。あれやこれやと俺なんかに無駄遣いするくらいなら、自分に遣えよ。俺のこと思ってくれるのは嬉しいけど、もうそろそろ子離れしてもいいんじゃないか。 ひと通りリュックの中身を並べ終えた女は、行きかう人や車に気をとられることもなく、ひたすら手を合わせて祈りを捧げていた。時折タオルで顔をぬぐっているのは、汗であるのか涙であるのかはっきりとはわからない。 言っておくけど、母さんは悪くないんだぞ。あの時だって、母さんは、雨合羽を着ていきなさいって言ってたんだから。それなのに俺が駄々をこねて傘で行くってきかなかったんだ。しかも、わざわざあんなに大きな傘を選んでいってね。それに、あの日は風も強かったでしょ、飛ばされないようにと傘を深く持っていたんだ。だから周りが見えにくくてね。信号はまだ青だと思い込んでて、つい駆け込んでしまったんだよ。母さんから「信号と左右をよく見てから」ってあれほど注意されていたのにね。おまけに、雨の音で周りの気配も感じ取りにくくて、気が付いた時には遅かったんだ。俺が悪いんだから、母さんはもう自分を責めなくていいんだよ。全部俺のドジが蒔いた種だよ。そういう点では、母さんに似てるんだろうね、ドジなとこは。母さんもドジだもんな。ほら、西の空が曇ってきていることに気づいてないだろ。夕立がくるぞ。 さっきまで大きな顔をして地面を睨みつけていた太陽は、まるでそれが嘘であったかのように、ぶあつい雲に遮られすっかり姿を隠してしまった。辺り一面が灰色に染まってくると、歩行者は空の機嫌を伺いながら足を速めていく。ポツリポツリと雨が静かに落ち始めた。 言わんこっちゃない。落ちてきたよ。傘も持ってきてないようだし、濡れちゃって風邪でも引いたらどうすんだよ。おや、ラッキーだね。ちょうど親切そうな人がやってきたぞ。 雨が落ちはじめても、すぐには立ち上がろうとしなかった女も、雨脚が激しさを増すにしたがって、自分の体がみるみる濡れていくのには、さすがにそのまま放っておくわけにもいかなくなった。女が立ち上がろうとした時、小走りで駆け寄ってくる男の姿があった。 「どうぞ、これを使ってくださいな」 男は自分の持っていた傘で女を庇いながら、カバンから何かを取り出そうとしていた。 「どうもご親切に」と女は頭を下げるのだが、差し出された傘に手を伸ばそうとはしない。見兼ねた男は、女から疑心と遠慮を取り除こうと、腰を折って視線の位置を女の目線の近くに合わせると、カバンから取り出していた折りたたみ式の傘を女に見せながら「私、もう1本持っているんで」と柔らかい口調で告げた。 男の厚意に観念でもしたように、女は「ありがとうございます」と、もう一度頭を下げると今度は傘を受け取った。傘を女に手渡した男は、もう1本の傘を手際よく開いて、手を差し伸べて女を立ち上がらせようとする。 立ち上がった女の目から涙がこぼれていることを察した男は、不思議そうな顔をして問いかけた。「どうかされましたかな?」 「いえ、もう20年以上も前の話ですが、この場所で息子が事故に遭いまして…」弱弱しく答える女の声は、雨と車の音が邪魔をして聞き取りにくい。それでも女の言いたいことが男にはわかったようで 「そうですか。そういえば、ここを通る時、何度かお供え物やお花が添えてあるのを見たこ とがありますが、あなたの…だったんですね」と何度も頷いて見せながら、男は女の視線の 先にある駄菓子の山を一緒に見つめいる。 「その日も雨が降っていましてね、私が持たせた傘が大きすぎて前がよく見えてなかったのだろうと…」 そこまで聞いた男は、全てが腑に落ちたようで女を励まそうとした。 「通りがかっただけの私が言うのはおせっかいが過ぎるかもしれませんが、あなたはもう十分な供養をされてます。天国の息子さんにも伝わってますよ」 「ならいいんですけど…」 女の気の抜けた返事にもめげることなく、なおも男は言葉を続けた。 「息子さんもお母さんのことを見守ってらっしゃいますよ、こんな時に、こうしてたまたま傘を二本持っている私を通りすがらせるのですから。あなたを濡らさないようにしてあげてということでしょう」 女は、さらに肩を落とし、ため息をついて男に語りかけた。 「私が、息子にできることは、こんなことぐらいしかありません。生きていたら、とっくに大人の年齢ですから、こんなお菓子なんて喜ばないでしょうけど、子供の時分は好んでいたものですから。笑われますよね」 女の目尻は少し下がって、口角はわずかに上がっていった。その表情を見て取った男は胸を撫で下ろし同じように頬を緩める。 「私は先を急ぐ用がありますので失礼しますが、その傘はそのままお持ちください。濡れて風邪をひくようなことになっては息子さんに私が叱られそうです」そう告げると、男はその場を立ち去ろうとした。 背を向けている男を呼び止めるように、女は力の限りに声を振り絞った。 「ありがとうございます。せめてお名前だけでも教えていただけますか」 女の言葉に、男は足を止めたが、振り返ることはせず片手をあげながら「大した事はしてませんので勘弁してください」とだけ告げて、傘を深めにさして去って行った。 そうかそういうことか。何で気づいてやれなかったんだろう。俺はこうして見知らぬ人に成りすまして何だかんだと母さんのことを助けてやれるけど、母さんは俺には何もできないんだよな。ごめんな、母さん。母さんの子供に戻ってやることができなくて。だから、もう言わないよ、子離れしろだなんて。
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