食えない男と食われた男

2/6
124人が本棚に入れています
本棚に追加
/168ページ
 今日の講義は一限目から。しかしそれほど好きではない内容に、それほど好きでない先生だ。しかし、講義の最中なにをしていても注意は飛んでこないから自由時間と見なしている。などど言ったら大層なご身分だと思われるだろうか。環はいつも仮想の人の目を気にして生きている人間だ。生まれついてからそういう風に生きている。そして、恐らくこれからもそうやって生きていくのだ。  だたっ広い講義室、できるだけ部屋の真ん中より前のあたりを狙って座る。前だと先生の目が気になるし照明が暗すぎる。後ろだと講義そっちのけでおしゃべり大会が催されて集中できないからだ。したがって、絶妙な位置に座る。朝はだいたい講義の三十分前に来て、そこで本を読んだり課題をこなしたりする。真面目だと笑われそうだが、早めに教室にいなければなんだか安心できないのだ。そして、朝の閑散とした学校が、案外好きであったりする。対して、人の声は耳障りで嫌いだ。誰かの下世話な笑い声も嫌いだ。講義中の先生のマイクの音声も嫌いだ。音がうるさい。いっそ耳も目と同じように閉じることができたらと、何度そう思ったことか。最近ではアパートの隣人がベランダで口笛を吹くようになって、早く死ねと強く願っている。うるさい世界が嫌いだ。  だから環は大抵、耳をふさぐように、イヤホンをしていた。好きなアーティストの曲や、雨音を流してそこに集中する。そうすることで、外界との接触をできるだけ最小限にするのだ。これは多くに人に理解されないものだが、環は強く苦しんでいた。  今もこうしてイヤホンからホワイトノイズを呑み込んで、平常を保っている。本を読むことで、自分が正常であると信じている。もう二十歳を超えたが、全く大人になれた気にならない。大人になるとは、子どものままの小さな心を、傷つかないように何層にも何層にも包み込めるようになることを言うのではないか。  始業十分前になり、教室が混雑し出す。環の友達はみな周りに座る。それから彼らはどうでもいい話をし出す。気乗りがすれば話に交わるが、その気でなければ黙って本を読むのが彼だった。そしてこの集団の中でそれは許されていたから、環にとってこれは助かった。  静かに顔を伏せて本を読んでいると、何やら慌ただしく教室に乱入してきては、ぎゃあぎゃあ騒いでいる連中がいる。ノイズからでも聞こえた大きな声は、あの男のものだった。
/168ページ

最初のコメントを投稿しよう!