最初から結末などわかっている

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 もう俺に家族と呼べる人はいないけど、この椅子だけは家族だと思っている。ずっとずっと、一緒にいた。これは俺だけのもので、またこいつはおれがいなければいけなかった。そう言うと笑う人がいるかもしれないが、あくまで俺は本気だった。まあ、別に誰に弁明するまでもない。俺がその事実を認めていればいいだけの話である。  人は、何のために生きているだろうか。  これは俺が何度も問い続けたものだった。何のために、その何かがわかれば、この高架下の拙い落書きのような失敗作の人生に、立派な額縁に飾られた絵画のような美しさが見出せるのではないかと、勝手に思い込んでいるからだ。けれど何度思考を走らせてもたどり着く答えは一つ。その何とは、存在しないことだ。これは俺をひどく不安にさせた。この不安を沈め、先が真っ暗闇に等しい人生をどうにか歩んでいくためには、理由という名前の、灯りが必要だった。  人は幸せになるために産まれてきた。そんな言葉をああそうか、と笑って受け入れられるなら、よかっただろうか。しかし俺はその言葉が大嫌いで、そういうことを言う奴は一人残らず殴ってやりたいとさえ思うほど、憎悪していた。幸せがすべてだと言うのなら、じゃあ幸せになれていない今は、生きるに値しない命なのか。それに、幸せになれないまま死んだ奴らに、意味なんてなかったのか。裏を返せばそういうことだ。誰もが信じたくなる魔法の言葉には、こんな呪いが込められていると、なぜ誰も気づかないのだろう?  最近まで、サイトに小説をあげていた。絶望の中で二人が歩いてくような、ほの暗いお話だった。そこに、珍しくコメントがついたのだ。生まれついての性(さが)か物事を悪い方へ悪い方へ考えがちな俺は、誹謗中傷の類いかと心臓を悪くしながら恐る恐る開けたが、褒め言葉だった。  そして、便所の落書きのような批判よりも、強く心を痛める言葉だった。  なんてことはない、どこにでもありそうな言葉だった。小説の詳細な部分を綺麗な言葉で褒められていた。まさしくそこに魂を注いだと言ってもいいくらいの部分が、ぴたりとした言葉で褒められていた。まさしく片割れのもう一人の自分が読んだのではないかと思うくらい、その人とつながっているようにさえ錯覚した。……バカみたいだろう、だって今まで評価されるような人生を送ってこなかったんだ。舞い上がって当然だ。しかし、最後の文にはこう書かれていた。『ハッピーエンド待っています』。俺はそれ見てげらげら笑いながら、約五万字ほどの、書きかけの物語を自分の手で破壊した。サイトは勿論、データ、ネタ帳もろともすべて削除した。その後で、頭を掻きむしりながら不貞寝をした。ハッピーエンド。その言葉を見るたびに、俺は何だか、鎖が絡まったアクセサリーを押し付けられたような心境に襲われる。  ハッピーエンドじゃなきゃ、お話は成立しないのか。物語の人々がハッピーにならないと、評価はもらえないのか。幸せ以上に何かを見出した物語は、読むに値しないのか。俺は少なくとも、あの物語の人々に幸せになってもらいたくて書いていたわけではない。その先の何かを掴んでほしかっただけだ。幸せなんて言う、しょうもないもので俺の物語に終止符を打とうとするな。それとも何か。ハッピーエンド以外は認めないわけか。だとしたらもう文学そのものは死んでいるな、と一人ほくそ笑んだ。二日酔いのあとのような空虚さに心を打たれた。
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