オオカミでも羊でもない男

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「わかった、でもちょっと切る」  適当に櫛で毛の流れを整えて、手始めに毛先を少しずつ切っていく。じょき、じょきと手に伝わる、人の髪を切っていく感覚は、妙にリアルだった。環の様子を見るに、特に嫌がっている素振りはない。 「……これだと」 「ん?」  沈黙に耐えかねたのか、目を伏せながらため息のような声の小ささで環が口を動かす。少しは心を開いてくれたらしい。下手をすると、夜風に消えてしまいそうな音だった。 「失恋して……髪切ったみたいだな」 「わはは、そうだねー」  失恋して髪を切る女の話は聞くが、さすがにフラれて髪を切る男の話はない。こんな話を振るということは、少しは心を開いてくれたらしい。うなじのあたりを切ると、先程お目にかかった、今は白に戻った首筋が現れた。髪を払うついでにそこを他意なく撫でつけると、若い皮膚の感触があった。環に怪しまれることはなかった。それどころか、気付けばずっとうつむいている。どうしたんだと少しだけ覗き込むと、ぼろぼろ泣いていた。 「ええっ」  鼻を鳴らして、それも居酒屋の比ではないくらい泣いている。あ、あ、と嗚咽を漏らして、顔を押さえている。どうやら、冗談のつもりで言った先の言葉が、ブーメランとなり刺さったらしい。これは大事故だ。  宙はこんなこっぴどく失恋したことはない。いつも友達を慰めては、お前は良いよなぁと言われる側だった。しかし、彼のこの様を見て、可哀想に思わないわけはない。その、悲しみ方が異様に女々しいのだ。たいていの男は、だいたい喚き散らしてそれはそれは見ていられないような醜態をさらす。しかし彼は、そういうだらしなさよりも、小さい子どもが泣くような憐愍(れいびん)さを持っていた。ほら、酔っぱらったおっさんが転んでも自業自得としか思わないが、子どもが転んで泣いていたら思わず駆け寄ってしまうだろう。彼にはそういう魅力があった。  ともかく、環はみじめそうに眉を八の字に歪めて、涙をぬぐっていた。そんなに、好きだったのか。そんなに思い詰めるほど好きだったのか。しかし彼が当の彼女にアプローチしているようには見えなかった。つまり、それはただの独りよがりの愛なのだろう。  宙は、驚いたことなど無かったかのように、取り繕って黙った。それから集中して髪を断っていく。涙が一番似合うこのあわれな男の身が、少しでも軽くなるように。 ほんとうは何もかも聞き出して丸裸にしたかったが、それはさすがに男のプライドをずたずたにするようなものだ。かわりに、環の外界に接するときの囲いを、こうして今ずたずたにしている。今度会うときに、少しでも環の内面に侵入しやすくするように。
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