インテーク『白猫とおかしなルール』

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インテーク『白猫とおかしなルール』

 いつもの縁側に白猫が寝ていた。無防備なくらいに腹を出して、気持ちよさそうに日光浴している。ときどき長いヒゲがひくっと動く。  面白そうだから引っ張ってやろう。いつもクールですました顔をしているがいったいどんな顔をするだろうかと思って近づくと、白猫が片目をゆっくりと開けた。  水晶玉みたいに透き通った水色の目でぎょろりとぼくを睨んでくる。まるで金縛りにあったがごとく、睨まれたぼくは一歩も動けなくなった。もちろん、白猫の長いヒゲに手が届くはずもない。  焦ってなんとか体を動かそうと、体をひねってもがいてみる。だけど指一本、言うことを聞かない。 ――くそっ、くそっ、くそっ!  するとそんなぼくを見た白猫がニヤッと口元をゆるめた。そのまま気持ちよさそうに目をつむる。体を縛っていた力が急になくなって、その場にドスンッとしりもちをつくぼくのことなど気にも留めずに、いびきをかいて眠っていた。  いや、寝たふりをしているだけなのかもしれない。  それにしたって、なんとも性格がねじ曲がってる。かわいさのかけらもない。 ――猫のくせに!  こんな図々しい態度の白猫はぼくが生まれるずっとずっと前から、屋敷に住みついているらしい。ぼくの年が12歳だからそれ以上なのは間違いないのだが、何歳になるのかは知らないし、誰に聞いてもわからないと首をひねる。  知っているのはおそらく家長であるじーさまただひとりだろうと、みんなが口を揃えて言った。  不思議なのは家長のじーさま以上に主の顔をして、自由に広い屋敷をうろついている白猫のことを誰も彼もがよくわかっていないということだ。それに加えて白猫に対して誰一人、ほんの少しも文句を言わないのだ。敬っているみたいに見える。当然の振る舞いだと思い込んでいるらしい。  例えば廊下ひとつ歩くにしても、ぼくたち人間は端を歩かなければならない。真ん中は白猫が通る場所だからと物心つく前から教え込まれた。決して穢してはならないと。  おかしなルールだ。  ただの猫じゃないか。    たしかに太陽光に照らされた毛は白金のように輝いて、とても普通の飼い猫とは思えないほど神々しい。  雰囲気もどこか高貴で、凛としていて、孤高の虎を彷彿とさせる。だけどちっぽけな猫である事実は変わらない。  ぼくら人間が本気になればどうにでもしてしまえるほどか弱そうに見える猫に、どうしてうちにいる人たちは老若男女、揃いも揃ってこんなにも必要以上に気を遣っているのだろうか。  ぼくにはまったく合点がいかない。  縁側で寝ている白猫がうっとうしそうな目で、ほうきで庭を掃いているぼくを見た。もっと音を立てずに静かに掃除しろ――とでも言いたげな顔で、こちらを睨む。 「おまえはいいよな、気楽でさ」  ぼくは砂埃が立つようにわざと荒々しくほうきを振った。  猫のくせに生意気だ。  のんびり寝ている暇があるのなら、少しでも手伝えばいいものを。  なんで人間のぼくが山のように働いて、主人でもなんでもない猫がくつろいでいるのか。  あの猫のせいで、ぼくは家業を継ぐことになるのだ。  しかも、その儀式まであと3日しかない。  儀式を終えれば、ぼくはこの家の主人となる。まだ12歳なのに、将来を決められてしまうのだ。否応なく。    ほうきを握る手にありったけの力を込める。さっきよりももっと強く掃く。風がひゅろろうっと吹いた。砂埃が縁側へ走っていく。  寝ていた白猫がむくりと上半身を起こした。耳が外側を向いて、くたっと倒れている。尖った三角形の目で、射殺さんとばかりにぼくを睨みつけてきた。 「なんか文句あるのかよ?」  睨み返しながら白猫に問う。すると白猫は返事の代わりにしっぽで縁側を思いっきりはたいた。バチンッと木を打つ重たい音が響く。  白猫との睨み合いが続く。長いしっぽが苛立ったように右へ左へ早く大きく揺れている。  どのくらいそうして睨み合っていただろうか。ひょうろろろとまた風が吹いた。白猫の視線がスッと動いた。そのときだ。 「どうかしたのかい、孝明?」  不意に話しかけられて、ぼくは振り返った。白い羽織に紫袴という神職衣装に身を包んだ中年の男性がぼくのことを不思議そうに見つめていた。  ぼくは急いで背筋を伸ばした。ベテランの宮司であることは袴を見ればすぐにわかる。  経験や人格、神社や神道に対する功績によって地位が決まるのだが、その人のはいている袴は二級以上の中堅職がはくことができる紫袴の中でも『八藤丸(やつふじまる)』と呼ばれる紋様が入ったものだった。 「叔父上!」  父の弟である久能(くのう)満則(みつのり)に向き合って、深々と頭を下げる。叔父上は、ぼくが生まれてすぐに不慮の事故死を遂げた両親に代わって、ぼくの心の支えになってくれている。  ぼくの家族であると同時に、神道を教えてくれる師匠でもある。 「掃除の手がとまっているよ? なにかあったのかい?」 「その……猫がぼくのことをバカにしてくるんです、叔父上」  そう言って、ぼくは縁側に座る猫を指さした。叔父上は「どれどれ」と言うように身を乗り出して辺りをきょろきょろと見回す。 「孝明、猫はいないみたいだが?」 「えっ? そんなわけないです! そこに座って、すっごいふてぶてしい顔でぼくのことを睨みつけていたんですよ!」  振り返って縁側を見る。しかし白猫の姿がない。夢でも見たかと思うくらいに、きれいさっぱりいなくなっている。 「本当にそこにいたのかい?」  叔父上が目を細めてぼくに問う。 「はい、たしかにいました! 体の大きな白猫です! 叔父上も、いつも屋敷で見ているでしょう?」  叔父上は両腕を組んで、ぼくをまじまじと見つめる。これまでに叔父上に叱られたことは幾度もあるけど、その中でも一番と言ってもいいくらい、とても険しい顔だ。疑われている――そう感じた。  唇を噛みしめてうつむく。  あの猫がどこかに逃げてしまったせいで、掃除をしたくないために嘘をついていると叔父上に思われてしまったに違いない。  叔父上はとても聡明な人だ。それに神力の高い久能家の中でも飛びぬけて力が強い。博識で、身体能力も優れている。所作は優雅で、見る者を虜にする妖しい美しさがある。欠点など見つからない完璧な人。  だからこそ、憧れと尊敬の念を抱いている。そんな雲の上の存在である叔父上を飛び越えて、ぼくが家長になるなどありえない。 「孝明」  叔父上の大きな手が、ぼくの頭の上にそっと乗った。顔を上げると、切れ長の深い黒目が優しくぼくを見つめていた。 「儀式のことで頭がいっぱいなんだろう。無理もない。おまえはまだ小学生だものな」 「叔父上……」  叔父上が薄い唇を横に引いた。「大丈夫」と言った。 「私はいつだっておまえの味方だよ。おまえが言うあのお方は気分屋だからね。気に入った人間の前にしか姿を現わさないんだよ。私からしたら、あのお方に相手にしてもらえるなんて羨ましくて仕方ないけどね」 「ぜんぜん嬉しくないよ! あの猫、すごく偉そうなんだよ!あんな猫が決めたことに従わないといけないなんて、じーさまもみんなもどうかしてるんだっ!」 「こらこら、滅多なことを言うものではないよ、孝明。さあ、はやく掃除を終わらせてしまおう。私も手伝ってあげるから」 「でも……」  ぼくはほうきを握る手に力を込めた。竹ぼうきの竿がきゅうっと小さな悲鳴をあげる。叔父上が困ったように軽いため息を吐いた。 「孝明」  叔父上に名を呼ばれて、急いで顔を上げる。 「話を聞いてあげるから、とにかく仕事を終わらせよう。いいね?」  叔父上は柔らかな笑みを浮かべながら、大きな手でぼくの頭をもう一度ゆっくりぽんぽんっと叩いた。
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