【計画実施】白猫の本領発揮

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【計画実施】白猫の本領発揮

 雨が降っていた。バケツをひっくり返したような大雨だった。  真っ黒な空から青い稲光がいくつも走っている。ゴロゴロと低いうなり声を上げて荒ぶっている空を窓から眺めていたぼくは、ふと壁の時計に目を走らせた。  約束の時間まであと五分。ゆっくりはしていられない。  押入れに隠しておいたリュックサックを取り出すと、一旦ふすまの前に置いた。ほんの少しふすまを開けて、そっと顔を出す。注意深く耳をそばだてる。  灯りのない廊下は真っ暗で影さえ見えない。物音もなく、冴え冴えと静まり返っている。  誰もいないことを確認して、リュックを背負った。ずしりと重い。  三日分の着替えとタオル、それから文庫本を数冊入れた。500ミリリットルのペットボトルを二本と、板チョコレートを何枚かも一緒に入れてある。  こんなふうに家を出るのは、学校の野外活動訓練以来だ。少し緊張している。こんな風に家を出るのは初めてだからだ。  ふすまを開ける手に余分な力がこもってしまう。ずれてしまってうまく動かない。  直すのに手間取る。湿気を吸ったふすまがガタガタと音を立てた。  なんとか元通りに直してからすぐに、ぼくは屋敷の裏に向かった。叔父上はすでに車に乗っており、ぼくのことを待っていた。フロントに打ちつけるひどい雨のせいで車内の叔父上の顔は見えない。  地面を叩く雨が飛び跳ねて、ぼくの靴をぐしょぐしょに濡らす。  雨は変わらず勢いを弱めない。急いで傘をたたんで、後部座席のドアを開けた。  身を滑り込ませる。  ぼくがドアを閉めるのと同じタイミングで叔父上は一気にアクセルを踏んだ。 「すごい雨だね」  窓から外を見ても、様子はわからない。  対向車のヘッドライトが流れるように車内を照らして通り過ぎていく。大雨の中の走行とは思えないほどの速さで車が走る。  メーターパネルを盗み見ると、時速80㎞のところで針が揺れている。いくら雨の夜の道が空いていようとも、この速さでの走行はあまりにも危険だ。  しかし叔父上はアクセルを緩める気配はない。それどころか、針が徐々に90㎞に近づいていく。  雷が近くで落ちたのか、ドンッと地をうがつような音がした。車がガタンッと縦に大きく揺れる。 「叔父上、もう少し速度を落としたら?」  バックミラーに映る叔父上に話しかけた。だけど返事はない。黙ったままハンドルを握っている。まっすぐに前を向いたまま、こちらを見ようともしない。  濡れた足元から体温が奪われる感覚を覚えて、もう一度声をかけた。 「叔父上。ちょっと寒いので、暖房をつけてもらっていいですか?」  叔父上の指がエアコンに触れる。ACの文字が緑色に光る。身も凍るような冷たい風がものすごい勢いで流れてくる。  全身がわなわなと細かく震えた。隣に置いていたたリュックを引き寄せる。バックミラーごしに叔父上を見据えたまま、「どこへ行くつもりなの?」と動揺を見せないように平坦な声で尋ねた。 「地獄だよ」  キューッと悲鳴のような高い音を上げた。車がめまぐるしい速さで回転する。車はガタンっと激しく揺れて停まった。  叔父上がやっとこちらを見る。振り返った叔父上の目が爛々として血走っていた。雷鳴が轟いて鼓膜を打つ。稲光に浮かんだ叔父上の顔に、ぶわっと全身に鳥肌が立った。 「あんた……誰だよ!」  ブルブルと震える唇の端を手で押さえながら言葉を投げた。叔父上はニタアッと白い歯を見せて笑う。叔父上の姿なのに別人に見える。なにかに憑りつかれているような奇妙な笑みだった。  ――逃げなきゃ!  身の危険を本能で感じた。ドアハンドルを探る。しかし指が引っかかる場所がない。ハッと息を飲んで扉を見る。ドアハンドルの表面に卵の白身みたいな膜が張っている。  ――結界!? 「このときを長い間、ずうっと待っていた」  叔父上の左手が運転席のシートを突き抜けて伸びてきた。避けようと身をよじったぼくの首が右手に掴まれる。ヘビが獲物を殺すように、ぎゅるぎゅると喉元を締められる。息が……苦しい。 「叔父……上……」  かすれる声で呼ぶ。叔父上はシシシッと卑しい笑いを放った。 「我は満則ではない。この男を操り、ときが満ちるのを待っていたのだ。隠された神器を手にするその日をな」 「な……にを……」 「12年前。おまえの父、晴臣(はるおみ)は瀕死の身ながら、ある場所に神器を隠した。最恐にして最高の力を持つ神器『白狐の牙』をな」 「それが……ぼくと……なんの関係が……」 「わからぬか? 晴臣は我が子と神器を守るために、己が子の体に神器を隠したのだ」  叔父上が涼しい顔でさらに首を絞める手に力を込めた。喉がつぶされてしまう。気道が確保できずに意識が白む。鼓膜に水が入ったように、叔父上の声がくぐもって聞こえる。 「おまえを殺すのは容易(たやす)い。だが殺してしまっては神器を取り出せぬ。おまえの心臓と神器が融合してしまっているからな」  ほほ笑みながら、叔父上が懐から短刀を取り出した。暗闇の中で、短刀の刃が赤く光っている。刃先をちろりと舌で舐めて、叔父上は「これがなにかわかるか?」と訊いた。 「神殺しの刀だよ。千年前に四神の力で壊された物の一部だ。長い年月をかけて、おまえの心臓の一部となった神器だけを取り出すためのメスだと思うといい」  叔父上の右手に握られた赤い刃先がぷっつりと胸に刺さる。心臓のある場所だ。  ――ああああああっ!  大火で焼かれたみたいに熱い痛みが全身をほとばしった。視線を下方にずらす。  叔父上はくつくつと喉を鳴らしながら、躊躇することなくゆっくりと刀を沈めていく。  皮膚からシューシューと白い湯気が立ちのぼる。鼓動する心臓が危険を知らせる警報のようにけたたましい音を上げて鼓動している。  ドクン、ドクン、ドクンッと―― 『わが名を叫べ! 孝明!』  痛みで狂いそうになっているぼくの頭に澄んだ声が響いたのは、刃先が心臓に到達する手前のことだった。力強く、凛とした張りのある声だ。  ――知らない! 名前なんて……知らない! 『知らぬわけがない。おまえとはずっと繋がっていたのだ。さあ、思い出せ! 今こそわが名を叫べ! わが名は――』  痛みが消えて、時がとまる。見上げた空には、雷光を背負った大きな白い虎がいた。  青々と冴えた目は見覚えがある。猛々しい光を湛えた白猫と同じ目を持った存在の名がハッキリと頭に浮かんだ。  ――白夜!  パアンッと風船が割れるような音がこだまして、ぼくの体は車外に投げ出された。ゲホゲホッと咳き込むぼくの前にシュッと空を切って、なにかが降り立った。  長いしっぽがたゆたうように左右にゆらゆらと揺れ、白い体は雨を弾いて光り輝いている。 「お……まえ……」 「やればできるじゃないか、孝明。ほめてやる」  こちらに顔を向けたそいつは、いつもバカにされてからかわれていた白猫だった。白猫はぼくの名を呼びながら、ニッと鋭い牙を見せて笑った。 「絶対に助けに来ると思っていたよ、白虎。こうしてお目にかかれて光栄だ」  車から降りてきた叔父上が白猫を見て目を細めた。白猫はフンっと鼻先で一蹴する。 「悪いが俺様の名前は白虎じゃねえ。まあ、間違ってもおまえみたいな卑怯者には本当の名を教えてやるつもりはねえけどな」 「千年以上経っても生意気な口は直りませんねえ」 「千年以上経ってもバカは直んねえみたいだな」  叔父上と白猫が睨み合う。どうやら二人は知り合いらしい。だけど話がまったく見えない。千年以上前からとはどういう意味だろう。いや、それよりもなぜ白猫の言葉がわかるのだろうか?  ビリビリと空気が震えていた。目に見えない緊張の糸が二人の間にピンッと張っている。  攻撃のタイミングを双方が伺っているように感じた。  ぼくだけが置いて行かれている状況で、ごくりと大きなつばを飲みこむ。  先に仕掛けたのは叔父上だった。羽織の袖から太い針をいくつも投げてきた。拳銃から放たれた弾丸のように勢いをつけて白猫に向かって飛ぶ針を、白猫はするり、するりと優雅な足取りで受け流していく。そして今度はこちらの番だとでも言いたげに、高く飛ぶ。ものすごい高速ででクルクルと車輪のように回った白虎が叔父上に向かっていく。  ところが、叔父上は避けようとしなかった。涼しい顔でその場にたたずんで、ニタリと(いびつ)な笑みを浮かべた。 「魂のない力のみの抜け殻など、所詮はこの程度だな」  叔父上の手が素早く九字を切る。  次の瞬間、白猫の動きがぴたりと宙でとまってしまった。グググッと低いうなり声をあげる白猫の頭をわし掴みにした叔父上は、そのまま地面に勢いよく白猫を頭から叩きつけた。白猫の頭が首まで地面にめり込む。  叔父上は無表情のまま、それを何度も繰り返した。  白猫の口や鼻、額から赤い血が飛び出る。花弁のように散った血が白い体を濡らす。 「やめろ!」  こらえきれずに声を上げた。叔父上が手をとめた。ぐったりと力の抜けた白猫をゴミを投げるようにぼくの前に放り投げた。 「おまえになにができる? 白虎は戦えない。式神も扱えない。簡単な呪術ですら使えない。呪禁師(じゅごんし)としては落ちこぼれのおまえになにができる? ん?」  目の前にいる叔父上が心底バカにしたようにぼくを見ていた。  言われたことはすべからく当たっていて、反論の余地もない。  (まじな)いを行って、様々な邪を祓う呪禁師の家に生まれながら、ぼくはまともに呪術を使えない。  だけど叔父上はそんなぼくをいつも応援してくれた。  使えなくてもいい。  落ちこぼれでもいい。  ぼくはぼくであって、とても尊いのだと――  だから、こいつは叔父上なんかじゃない。優しくて、春の風のように笑う人だ。千年以上前からこの世にいる実体のないなにかであろうとも、勝手な真似は許さない。  だって、目の前にいる叔父上は誰かを傷つけて喜ぶような人ではない。大切な憧れの存在でもある人の手をこれ以上汚したくなかった。 「……出て行けよ」 「ん?」 「叔父上の体から出て行けよ……」  胸の中心がカアッとものすごく熱くなった。刺さっていた神殺しの短剣が白い煙を吐いて消えてなくなる。まるでぼくの中に宿った太陽に焼かれてなくなるみたいに、だ。  目をつむる。  ――そうだ、思い出せ!  叔父上が教えてくれた呪禁師としての技を。ぼくがうまくできないときでも、何度も何度も根気よく、優しく教えてくれた叔父上との鍛錬の日々を。そして、どうやれば心に宿る宇宙とぼく自身が繋がることができるかを、今こそ――!  呼吸を整える。  五感を研ぎ澄ませる。  外の世界を閉ざして、自分の内側へと全神経を傾ける。  雨音も聞こえない。  時間の流れもわからない。  深く、深く、自分自身の中心に近づいていくと、閉ざされた真っ暗な視界に光り輝く広大な宇宙の景色が映った。 「オン」  両手で印を結ぶ。 「アビラウンケン」  広大な宇宙の真ん中で、真っ赤な太陽が勢いよく燃え盛っている。 「ソワカ!」  目を見開いたとき、獣の猛り声を聞いた。  ぼくの足元にはいつの間にか五芒星が描かれていて、黄金の光りを放っていた。真っ黒な雲がとぐろを巻く空へとほとばしった光がぼくの中に一気に流れ込んでくる。  ――上出来だ、孝明!  頭の中で白猫、いや白夜の声が響いた。  それは不思議な体験だった。  頭とお尻からなにかがにゅうっと生えてくる。指先が引っ張られる感覚も続いた。体中が熱くなって、力がみなぎってくる。 「少々小さい器だが、猫の体よりはマシだな」  ぎゅっぎゅっと両手を握ったり、開いたりするぼくがつぶやいていた。そう、つぶやいていたのだ。ぼくの意思とはまったく無関係の別の存在が、ぼくの体の中にあって、ぼくの体を動かしていたのだから。 「さあ、来い。相手をしてやる」  両足でリズムを刻む。右手をクイックイッと動かして、相手を挑発する。叔父上がチッと舌打ちして、また九字を切った。指を剣に見立ててクロスし、格子を作る。 「魔払いなど」  地面に両手をついて、四つん這いの姿勢になる。大きく背中をそらして、力の限り蹴り上げた。天に届くほど高く飛んで、空中で体をしならせるようにひねりをくわえた後で大きくしっぽを振りかぶる。 「俺様を愚弄するな、たわけ者が!」  バアンッと結んだ手をしっぽで叩くと、力を受けとめきれなかった叔父上がはるか後方に吹っ飛んだ。  地面が大きく削れて、叔父上が仰向けに倒れた。そこへ一気に走り寄り、起き上がろうとする叔父上の胸を踏んづけた。  叩きつけられた地面に激しいひび割れができ、陥没する。 「俺様は戦神白虎。この世にはびこるすべての悪を浄化するが我が使命」 「ウワアアアア!」  叫び声とともに、大きく開いた叔父上の口から白濁としたもやが飛び出した。 「逃がさねえよ」  もやを引っ掴む。恐怖で引きつった顔がもやの表面に浮かぶ。 「たとえ魂の一部であろうとも、消えてなくなるのは怖いんだな」 『終わらぬ。終わらぬぞ、白虎。我はおまえたちを諦めない』 「千年以上も力や権力に執着するとは救いようがない」  一切の迷いなく、もやを握りつぶす。 『ギャアアアアアアアアッ!』  醜悪な絶叫を残して、もやが掻き消えた。 「許しを乞うがいい。おまえが奪った命たちに、な。まあ、天に帰ることができればの話だが」  静かなつぶやきを拾うように風が吹いた。その風が空へと駆け抜けていく。厚い雲が姿を消して、三日月が姿を見せる。  走り去る風をしっかりと見送ってから、ぼくはゆっくりと目を閉じた。
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