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「あら、お客さまかしら?」  生まれたばかりなのか、小さな赤ん坊を抱っこした女性のライオン族が奥からゆっくりとした足取りで現れた。 『ブチ! おい、状況はどうなんだ?! もう俺たちは入り口前の茂みにいるぞ』  小さな赤ん坊はむずがるように女性の腕の中で動き、逃げ出そうとするのを女性が抱っこしなおす。ようやく成人したばかりの斑がこうやって”現場”に来るのは初めてで、誰かがいるというのは想定外だった。仲間が入ってきたら間違いなく、この女性と赤ん坊は――命を奪われるだろう。仲間たちは女子供だろうと気にしない、残虐なところがある。自分たちの目的のためには何を犠牲にしても気にしないのだ。  震える手でポケットから手を出そうとするが、ナイフを握る手を開くことができない。 「どうかしました? 顔色が悪いようですよ」 「いえ、ちょっと見たかっただけで……」  こんな高級を売りにした店に似つかわしくない恰好ではきっとすぐに不審に思われてしまう。焦った斑は、慌てて問題ないと手を振ろうとしたが、弾みでナイフが床に落ちてしまい、それを拾おうとしてフードが取れてしまう。ナイフを見た女性の高い悲鳴と子どもが泣き出す声に、斑は自分が失敗したことをすぐに悟った。  仲間からの情報がそもそも間違えていた。第一夫人はどこかに行って留守にしていたのではなかったのだ。子どもを産み、面倒を見ていたから外に出ることがなかなかできなかったのだから。 『ちっ、連中が戻ってきた!! ブチ、永遠にさようならだな』  無線は一方的に切られた。そこから追跡されるのを防ぐために、すべての痕跡を消されてしまうので二度と耳に着けていた無線機で連絡を取り合うことはできない。教えられた通りに耳から外して靴で踏んづける。小さな機械を粉々にした後にナイフをポケットに戻して立ち去ろうとしたが、けたたましい警報ブザーが鳴り始めるのと時を同じくして、無慈悲にも目の前で店の正面ドアが開いた。彼らは、長い食事をしに出掛けたわけではなかった。群れ(プライド)の一人のために、注文をしていたらしい豪華なテイクアウトを買って帰ってきた。  何もかもが、予想とはずれてしまった。  赤ん坊を抱きかかえた女性が、戻ってきたライオン族の男に震える声で事情を説明する。ハイエナはライオンとも優位に戦うことができるが、それはあくまでライオン1に対してハイエナの数が多ければ、の話。一人で勝てる見込みは悲しいほどになかった。  この国は法治国家だ。何か悪いことをすれば法で裁かれる。だが、それは人間にのみ対応しているものばかりで、獣亜人たちの特殊な慣習などは考えられていないものが多いため、獣亜人たちはいまだに彼ら独自のアンダールールで取り決めや裁きを行うことが多い。先祖が肉食獣だった者たちの場合なら、お互いのテリトリーに暴力を持って侵入した者は暴力を持って裁かれる、ということが多い。 (永遠にさようなら、か……)  斑の黒く大きな瞳には、怒りで顔を真っ赤にした大きな体躯のライオン族の男女たちが一斉に拳やら硬そうな何かを振り上げてくるのが映った。殴られたり蹴られたりするのは、幼いころから群れの中でもしょっちゅうあったことだけれど、痛みが襲い掛かるこの瞬間はとてつもなく恐ろしい。痛みには、決して慣れることができない。  斑が何とかできたことといえば、殴られ叩き落される自分のことを、どこか遠くの景色のように考えることだけだ。何度か、「ハイエナなら仲間がいるはずだ! どこにいる?!」と問い詰められたが、それも聞き流す。短く切りそろえていた爪を無理やり引きはがされたのは本当に痛くて涙がボロボロと出たが、どんなに痛くても仲間のことは口にしてはいけない、と”女王”と約束しているから絶対に口にはしない。仲間のことを話して仲間たちが――そして”女王”が捕まれば、ハイエナ族は『ハイ』から完全に追放されてしまう。 (痛い、痛い、痛い……)  圧倒的な暴力の連続だった。ハイエナ族の中でもΩという特殊で、:群れ(クラン)での序列で言えば最下位の斑は身体も貧相なので成人した青年には見えない。 「あなたたち、赤ちゃんがいる場所で、それ以上酷いことは……まだ、何もされてはいないから。その子も、まだ子どもみたいに見えるわ」   他の夫人たちと奥に下がっていた、赤ん坊を抱えていた第一夫人が憂慮するように声をかけると、ようやく暴力の雨が止む。 「この薄汚いハイエナを『アンダー』に叩きつけてやろう」  腹のあたりを思いっきり蹴られたが、相手の手が離れた隙を狙って斑は本性であるハイエナの姿に戻り、血をまき散らしながらも必死で逃げた。後ろから追いかけてくるのが分かったが、本気で走ればあのライオン族の男よりも斑の方が速い。爪を何枚か失った足で走るのはかなりの拷問だったが、捕まってしまったら本当に一巻の終わりだ。  この店が襲撃場所に選ばれたのは、『アンダー』へ向かうポート・ステーションが近いこともあった。途中で獣亜人の姿に戻り、血が流れているところに破いた服を巻き付けて止血しながらポート・ステーションに逃げ込もうとしたが、先回りしていたらしいライオン族の女の姿が見えて斑は無意識に方角を変えた。  もう一つ、走っていける場所にも『アンダー』行きのポート・ステーションがある。ポート・ステーションは『ハイ』と『アンダー』を繋ぐいくつか設置された駅のことで、身体だけを行き来させることができる便利なものであったが網膜認証を受ける必要があるのであの状況では認証を受けている間にライオン族に捕まってしまうだろう。 (も、もうダメだ……意識が……)  呼吸が乱れ始めた。体が貧相な斑でも、いつもならもっと遠くへ、速く走り続けることができるが、今まで散々痛めつけられた体ではすぐに限界が訪れた。体のどこもかしこも痛くて、肋骨のあたりは恐らく折れているだろう。  捕まるわけにはいかない。  ただそれだけが頭の中には強くあって、大通りから外れると暗がりにある大きな屋敷の物置小屋に狙いを定めて潜り込み――そうして、斑は意識を失ったのだった。
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