02

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 次に斑が目を覚ました時、彼は自分が柔らかな寝台に寝かされていたことにすぐに気づいた。こんなに心地よいベッドは初めてだ。驚いて飛び起きようとして、爪を失った数本の指や折れているらしい肋骨に激しい痛みが走って悶える。斑が怪我したところは清潔な布が巻かれており、丁寧な治療が施されていた。自分に何が起こっているのか分からず、寝転がりながら包帯だらけの自分の指を見ていると、扉を叩く音がした。 「気配がしたと思ったが、起きていたんだな。調子はどうだ」  扉から現れたのは、長身で体躯の良い男だった。耳や尾の特徴、短く整えられてはいるが、少し明るく時折焦げ茶が混じっている黒髪は恐らく――ライオン族だ。悲鳴を上げ、慌てて逃げようとした斑だったが、怪我をしていたのに無理やり走ったせいで悪化した身体はまったく言うことを聞いてくれず、あっけなく寝台から転がり落ちる。ライオン族の男は無言で近寄ると、斑を怒ることなく優しい手つきで寝台へと戻した。 「お、俺を捕まえにきたの? 俺は捕まったのか?」 「訳ありだろうとは思ったが、何かやらかしたのか」  呆れた、と言わんばかりの表情をしたライオン族の男が椅子へと腰かける。整った容貌をした男で、眼光鋭い瞳は琥珀色をしている。この世の終わりを悟った斑が震えながら怯えていると、手に持っていた小さな紙袋をひょいと斑の手元に放り投げた。 「話は落ち着いてからでいい。丸三日近く寝ていたんだ、いい加減腹も減っただろう」   自分がそんなに寝ていたことにも驚いたが、このライオン族の男が警察や保安部隊に斑を突きつけないまま部屋に置いてくれていたことも驚きだ。 始祖の時代からライオン族とハイエナ族はお互いを毛嫌いしている。 しかも、斑は男の話が正しければ3日前、この男と同じライオン族に殺されかけたのだ。やはりどうしても怖くて伺うように男を見たが、男は無表情に斑を見ていた。 「まさかパンなんて柔らかいものは食べない、とか言うなよ? 骨の用意はさすがにない」 「お、俺たちだって好きで骨を食べるわけじゃないよ。他に食べられる物があるならちゃんとした食べ物の方を食べたい」 怯えながらも何とか言い返すと、ライオン族の男は「そうか」と短く返した。それから続く沈黙が嫌で、いそいそと紙袋から取り出したパンを食べ始めたのだが男はじっとこちらを見ている。  どうやらこの男が斑のことを世話してくれていたようだが、顔に見覚えなどは一切なかった。どうして自分を匿ってくれたのだろうか――そう考えていると、男の方が「ああ」と気づいたように声を出した。 「どうして私が君を助けたのだろうって? 簡単だ。君が私の屋敷の小屋で死にかけていたからだ。さすがに自分の屋敷で誰かに死なれるのは面倒だから」 「……助けてくれて、ありがとう」  面倒、とは言われてしまったが、助けてくれたのは間違いがない。斑の反応が意外だったようで、男はおや、という顔になった。 「驚いたな。君はハイエナ族だろう? しかもどこかで悪さをしてきた――その割には穏やかなんだな」  穏やかなのではなく、臆病なのだが。そう思いながらも、貶されたわけではないので気恥ずかしい気持ちで斑はパンを貪り食べる。その間も男はじっとこちらを見ていて、やがて斑が食べ終えると、待っていたとばかりに口を開いた。 「私はレグルスという名だ。君の名前は?」 いきなり詰問されるとばかり身構えていた斑は、思ってもみなかった質問に、肉食獣系にしては少し垂れ目がちな大きな目を何度か瞬かせた。それからおずおずと「斑と言います」と返す。 それに満足したように男――レグルスが小さく笑った。精悍な顔立ちをしているので、怖そうな男だとばかり思っていたのだが、優しそうな笑みに見えて斑は戸惑う。 「悪いが、斑が気を失っていた間に手当のため君の体を確認させてもらった。……君はΩだね? Ωは子を成せる。子を産む者が上位になるはずのハイエナ族なのに、どうしてあんなボロボロになっていたんだ?」 顔を引き締めて尋ねてきたレグルスに、斑はしょんぼりと大きな耳を垂れた。初対面の、それもこんな立派そうなライオン族にあっさりと自分の身体の秘密を知られてしまったことが情けないし恥ずかしくて。 だが、レグルスの言うことは正しかった。 獣亜人たち――特に肉食獣系の獣亜人は、元々の絶対数が少ないため進化の過程で何度か種の全滅に晒されてきた。全滅を避けるために自然と進化したのが、狼の群れの序列に例えた新しい性だ。 αは群れのリーダーを担える有能な性。 βはα以外のふつうと言われる者たち。 Ωは外形の性にとらわれず子を宿すことができるが、古来男性が女性であった名残の部分が発達しているというだけなので、より男性の部分が濃い者と薄い者など、多種多様だった。また、Ωはリーダー群であるαよりも数がかなり少ないため神聖視されることも多い。 そして、ハイエナ族は女性が上位になる。すべての女性の次に男性がくるという徹底ぶりだ。リーダーの子どもがリーダーを継承することが多いのでトップになることは難しくても、本来なら斑も群れの上位の者として大事にされるべき存在となるはずだった。 「俺は成人したのにまだ発情期(ヒート)が来ていないんだ。Ωは確かに男たちよりは優遇されるけれど、それはヒートが来たらの話で。もっと小さい頃、俺は俺と同じブチハイエナの仲間たちと生活していて……でも、ある日住んでいたところを焼き払われてしまって。一人でなんとか逃げ出したところで、今のカッショクハイエナの”女王”に拾ってもらったんだけどさ。新参者は最下位なんだ、いつだって。ハイエナ族って意外と少ないから、俺の次に誰か入るってことはなさそうだし」  そう、Ωだから斑は今の群れに拾ってもらったようなものなのだが、肝心のヒートが来ないままだ。今の群れに拾われるまで、日々の食べ物には常に困っていて骨にありつければラッキーというくらいに酷い生活をしていたのが悪かったのか、斑はもう20歳を越えたというのにヒートが訪れる気配は一向にない。  「それで? 君はどんな悪さをしたんだ」  淡々とした口調の斑の話を聞き終えると、感想を伝えることもなくレグルスはアンバーの瞳を眇めた。和やかな時間はこれで終わったな、と斑は観念した。恐らくこの後レグルスは警察を呼び、前科がつくだろう斑は『ハイ』の通行許可を取り消されてしまうだろう。そうなれば今の群れからも不用者扱いされて――また、骨にありつく日々に戻るのだ。だが、だからといってあの時、宝飾店への強盗が成功しなくて良かったとも思う。自分と同じように家族を奪われる苦しみは、誰かに味わってほしいものじゃない。  一生『アンダー』なのかあのライオン族に引き渡されて殺されてしまうかは分からないが、斑は色んなことを諦めると、自分がどうしてレグルスの屋敷の小屋に転がり込んだのかの経緯を説明する。先ほどとは違い、震え始めた声でなんとか話し終えると、不意に斑の頭に大きな手のひらが乗せられていた。意図が分からなくてびくりと身を震わせると、レグルスが苦笑いする。 「斑には強盗の仲間だなんて似合わないし、結局できなかったわけだ。元々、優しい気性なのかな。……仲間のことを恨んだりしていないのか? 君のことを見捨てて逃げて行ったんだろう?」   ――優しい?  そんなことは生まれて初めて言われた。あまりにもくすぐったい言葉に居心地悪げに尻尾をぱたつかせてからレグルスの問いに斑は首を左右に振る。 「仲間のことは恨んだりなんかしていないよ。同じハイエナ族だけど、今の仲間たちと俺とは種類も違うのに、ねぐらはくれたし。あっ、お願いだから俺のことは警察に突き出してくれてもいいけど、俺の仲間を追ったりしないで欲しいんだ」 「私が君を警察に突き出す気なら、怪我の手当てなどしないでとっくに突き出していたさ」  レグルスが少しむっとしたようになったので斑が慌てると、手のひらに置かれたままだったレグルスの手が優しい手つきで斑の髪を撫でた。
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