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03
群れという行き先をなくしてしまった斑だったが、レグルスは彼自身が言っていた通り、斑を警察やあのライオン族に突き出す気はないようだった。
『そもそも、襲い掛かってもいない斑に対して相手の方がやり過ぎだ』とも言ってくれたが、斑が躊躇していたら偶然あのライオン族たちが帰ってきてくれたおかげで悲劇は起きなかったと言えるわけで、そうやって庇われるのは申し訳ない気持ちになる。
レグルスがライオン族の中でもかなり秀でているのだろうことに気づくには、数日で十分だった。それなのに彼は一人で生きている。斑には気兼ねなく接してくるので他人が嫌いというわけでもないのだが。
彼は訪問医をしているようで、『ハイ』の中にいる家から出られない獣亜人たちのところに出向くのが主だが、『アンダー』や他の地域も頻繁に訪ね歩いているらしい。斑がレグルスの屋敷にある小屋に転がり込んだあの日は、偶然屋敷にレグルスが戻っていた日だったのだ。
なかなかに広いレグルスの屋敷は週に何度かハウスキーパーが訪れて綺麗にしていくのだが、それ以外に訪ねて来る者はいなかった。斑が転がり込んでから傷が回復するまで、レグルスは屋敷に留まることにしたらしい。
「なんか、足引っ張ってばっかりでごめんなさい」
ハイエナ特有の大きな耳がしょんぼりとなると、レグルスは苦笑して読んでいた本を閉じた。レグルスのような長身の男が余裕で数人は座れそうな居心地の良いソファはすっかり斑の居城となっている。そのソファに近いところにおかれた一人掛けのソファに座っていたレグルスは立ち上がると、足音静かに近づいて斑の隣に座った。
「足を引っ張っている自覚があるなら、勉強すると良い。どこかで学んだ経験は?」
冷静に問われて、斑はおどおどとしながら首を左右に振った。今まで生きるのに必死だったので、他の獣亜人たちにはもはや当たり前となっている学校にも通った経験はない。そう返すとレグルスは眉根を寄せたが、再び立ち上がって書棚に向かった。戻ってきたその腕には数冊の本があり、斑の膝の上に置かれる。
「文字は読めるか?」
「”女王”が教えてくれたから、読むことはできる」
まともに本を触ったのは初めてだ。緊張しながらレグルスが持ってきた本を開くと、それは可愛らしい絵があちこちにちりばめられた絵本のようだった。
「この屋敷にいる間は、とにかく本を読むように。もう群れに戻れないというのなら、私の仕事を手伝えるくらいになってもらいたい」
「手伝い? 本当に……?」
ハイエナ族の仲間の中でも最下位の斑ができる仕事といえば、先日のような強盗の下見といった低俗な仕事ばかりのはずだった。それなのに、斑に仕事を与えてくれるというのだろうか。
「俺、頑張るね。勉強とかしたことないけど……いっぱい、本読む」
「期待しないで待っている」
もう一度隣に座ったレグルスは苦笑しながら斑の頬に手を差し伸ばすと、そのまま自身の額を斑の額とくっつけた。驚きでかたまった斑だったが、そういえばライオン族は特に親しい仲間とはこうやって挨拶するものだったと思い出す。
(俺、ハイエナだけど……レグルスの仲間になれたらいいなあ)
まるで仲間に入れてもらえたような、そんなくすぐったい気持ちになりながら斑は必死に絵本をめくるのだった。
***
パラ、パラ、と程よいペースでページを捲る音がする。
「勉強するために」と意気込んでいた斑だったが、思ったよりも本を読むことは面白いようで、レグルスも驚くペースで本を読んでいく。もう、絵がない本でも大丈夫だからと言われたが、絵がない本は医術書くらいしかないのでそろそろ街に買出しに出た方が良いだろうか、と少しずつ移ろっていく外を見やりながらレグルスは思う。
正直、自分の屋敷の小屋にハイエナ族の青年が転がり込んでいるのを見た時は面倒なものを拾ってしまったとは思った。
粗野で素行が悪く、祖先の時代からハイエナ族は他の獣亜人や人間たちからも嫌われている。目を覚ました瞬間にこちらに攻撃してくる可能性も考えたのだが、医師の免許を持つ者としては看過できず仕方なしに手当てをした。
「レグルス。この本、ライオン族のことが詳しく書いてあるね」
黒めがちな大きな瞳は好奇心に満ちていて、だが笑うと少しだけ眦(まなじり)が下がる。大きな耳も結構斑の感情を表現していることが多いが、レグルスが見てきたハイエナ族の中でも斑は特殊なのでは、と思うくらいに穏やかな性格をしている。最初の頃、レグルスが近づくと怖がっていたのは分かっていたが、最近はもうそういう様子も見せない。
(これが演技だったら凄まじいな。だが、確かに賢い子ではある)
知能が高いと言われているライオン族の中に混ぜても、遜色ないくらいかそれ以上に斑は飲み込みが早い。いろんなことへの関心も強いので、きちんとした教育を受けていれば青年が命をかけてまで強盗の片棒を担ぐなんて惨めな半生を送ることはなかったのではないかとすら思う。
斑を痛めつけたライオン族のことも見当はまだついていないが、斑の怪我がようやく全開したところで斑をこの屋敷の中に閉じ込めておくのがかわいそうになってきた。レグルスが知る、嫌われ者のハイエナ――『ハイ』に住まう住人たちからも嫌われている種族――である斑を外に出したらどんなことになるのか分かっているのに、だ。
お気に入りのソファに腰かけながら本を読む斑の、短いけれど途中から黒い毛で覆われたふさふさとした尾が時折動くのを見ながらレグルスは口を開いた。
「外に出かけてみるか? 数軒、そろそろ様子を見てほしいと連絡が来ている。往診の帰りに本屋にでも行こう。家の手伝いをしてくれる礼に、気に入った本があれば数冊購入しようか」
「本当?!」
読みかけの本に慌てて栞を挟み、斑の大きな黒瞳が期待に満ちながらレグルスを見上げてきた。どんな本でも文句を言わず読むし、そういえば食べる物も好き嫌いせずなんでも美味しそうに平らげる。ハウスキーパーのいない日は屋敷を掃除したり庭の世話をしたりするのがここ最近の斑の仕事になっていた。給金を払おうと何度か斑に説明したものの、斑は「助けてもらったお礼だから」と頑なに受け取ろうとはしなったのだが、本を給金の代わりに買ってやる方が喜ぶのだな、とレグルスも思わず微笑を浮かべる。
……そういえば、斑が来てから屋敷の中が随分と明るくなったとハウスキーパーが声をかけてきたのを思い出した。
この屋敷に住まうのは、レグルス一人だけだ。
(もう、『誰か』なんて必要ないと思っていたのだがな)
昔、家族とそうして挨拶を交わしていたように、つい斑の可愛い様子を見たりすると構ってしまうのだが、本能的に恐ろしいはずのライオン族であるレグルスに、斑は頑張って近づこうとしているようだった。
「あ、ありがとう、レグルス」
おずおずと斑が隣に座っていたレグルスに近づいてきたかと思うと、そっと額を摺り寄せる。いつもぱっちりと開いている大きな瞳は、今はぎゅっと閉じられており、それが斑の精いっぱいとでも言うところが愛おしく思えて。不意に浮かんだ予感を、レグルスは打ち消すように斑の頭を撫でた。
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