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第1話 鈍い痛み
雨が少ないはずの季節なのに、空の機嫌が悪い。
雨滴がひとつ、葉っぱに溜まった水の塊から、小さく分かれて飛んだ瞬間に、ピッと音を立てる。
――水色。
弧を描いて落下した水滴が、溜まっていた地表の水たまりの表面に溶け込んで、小さな波紋が広がる。
――藍色。
鉛色の空の下で、ケイカはただ頬杖をついて、教室の窓からつまらなそうに外を眺めていた。
少しだけ開けられた窓から、教室に近いところの地面に小雨があたる度にパラパラと音が聞こえるので、ケイカの色は青系の模様の連続。広がっては消える丸い輪で、視界は覆い尽くされていた。
もみあげの金髪をつかんで耳を塞いでしまえば色は消え去るのだけれど、今はそれすらも面倒くさい。
今朝からずっと調子が悪い。波に乗ってやってくるその鈍痛は下腹部に住まわっていて、何かをする度に――いや、しなくてもケイカの頭にある憂鬱の鐘をゴンゴンと鳴らしに来る。そいつらの待ち行列が捌かれるまで、彼女はこうして顔を不細工にして、待っていなければならなかった。
きっと他の誰かが見ても、ケイカのけだるい表情からは、視界にそんな派手な色が見えているとは想像がつかない。少なくともこのクラスの女生徒たちと、彼女たちの前でこれから口を開こうとしている、楽師以外には。
「一ヶ月後の、学年最後の課題を発表します」年老いて声は細くなってはいる。けれども容赦のない厳しい声だ。まだまだ美しい銀色の髪を翻らせて、彼女は白板に向き直り、ペンでその文字を書いた。
『恋の曲』
そのあからさまで身も蓋もない三文字に、教室の十数名の女子たちがざわついた。中には馬鹿にしたように苦笑いを漏らす子もいた。
唯一、ケイカだけはそんな騒ぎに同調せず、ずっと外を眺めている。
「静かになさい」楽師の落ち着いた叱責の言葉で、教室は瞬時にもと通りの静けさを取り戻した。
「ありきたりではありますが、それゆえに深く、取り組みがいのあるテーマです。基本であるものほど、その曲に自分を表現しようとすると途端に難しくなるものです。そこのあなた!」
教師の隙をつき、背後の生徒に小声で話そうとしたサンジャオは、声に驚いて椅子からずり落ちそうになった。
加齢により痩せて骨ばった教師の人さし指が、構えた槍のように少女を追い詰める。
「あなたの器は何ですか?」
教室の生徒全員が思った。教師は絶対に質問の答えを知っていると。敢えて聞いているのだ。
「チ、チェロです」
「では今回の課題であなたが出そうとしている色を言いなさい」
「……まだ決めていません」
楽師の言葉は、答える度に萎んでいく少女に加えて、クラス全体への警句として発せられていた。
「課題はもう出たのですよ。油断してはいけません。今日からでも自分の曲を決めて、色出しにかかってください」
「はい!」教え子たちは全員、従順に肯いて返事をした。
「バーカ。あんなすぐに喋ろうとすんなよ」楽師のいなくなった教室では、少女たちの雑談が始まっていた。
「油断したわー」クラスの年上の子に頭を小突かれたサンジャオは、笑いながら答えた。明るい性格の彼女は、そのドジっ子ぶりをクラス中にPRするのを忘れない。そうしながら目の端では、窓際で机に突っ伏している友人をちらちらと見ていた。
さらに二言三言会話を交わした後、サンジャオはケイカの元へ子猫が跳ねるように近づいた。
「ケーカ!」挨拶代わりにケイカの首筋にかかる巻き毛を引っ張る。「なんか今日はずっと機嫌悪いね」
「お腹痛くて……朝から」眉毛にかかる金髪のすだれの隙間から、ケイカの憂鬱な片目が見えた。
「あー、あれね……。薬飲んでじっとしてるしかないよね。すぐには治らないし」
「知ったかぶり……。お子様にはわからん」
「あー馬鹿にすんな!」サンジャオは茶髪の三つ編みを揺らして、けたけたと笑った。
この子はホントよく笑うとケイカは思った。落ち込んだ時にその快活さを分けてもらい、何度も助けられた事がある。けれど今ばかりは、感謝を返す余裕はなかった。
「うー、サンジャオ……大事なお友達。お願いしますから」ケイカは潰された猫のような声を出した。「雨が銀色に見えてきた。ねえ、目が変になるから外の音、消してくれない……。あと私のことは少し放っておいてくれると……」
サンジャオが素直に手を伸ばして窓を閉めてくれた。
ケイカの耳に雨音が聞こえなくなった。と同時に、あれほど目をチカチカさせていた青い色が視界からふっと消え失せた。ようやく落ち着けるよと、ケイカは小さく鼻で息をした。けれどそれも束の間、喋りたくて仕方ないサンジャオが容赦なく話しかけてきた。くっそー、窓を閉めたのは、あくまで自分のお喋りを私に聞こえやすくする為だったか。
「トレイトマに釘刺されちゃったよね。ケイカはどうするの?」
「ててて……何が?」いま突然やってきた疼きは、腹から頭までズンときた。ケイカの頭から白い煙が出て、一瞬意識が空白になった。
「ふう、これだ! 課題の事に決まってるじゃない。か・だ・い!」
「どうするも、こうするもないよ」
「まあ楽器は決まってるよね。ケイカはピアノしか駄目だから」
「そっちこそ馬鹿にしてない? 他にも弾けるわい……えーと……マリンバとか」
「何それ、打楽器じゃん。ハハハ! そんなの選んだらそれこそ――」
サンジャオの顔が、ケイカの反応に期待する気持ちで、ニヤついた。友人の語尾の調子と目つきに反応して、ケイカはとっさに頭を上げた。
「「あなたの色が見えません! はい、次の人!」」
少女たちの声が重なった。二人は顔を寄せ合って眉間に皺を寄せ、レッスン中に楽師がよくする厳しい声の真似をした。息はぴったりだった。ケイカとサンジャオは互いの顔を見てケラケラと笑いあった。
「調子出てきたじゃん!」サンジャオが目尻の涙を拭きながら言った。
「だって、お約束やるんだもん。無理やり起こされたーちくしょう」
少し元気をもらえたのは認めなければならない。ケイカは感謝しつつもう少し休もうと頭を倒しかけたが、その動作は突然の先輩の一言で中断された。
「軽薄な黄色のオーラばら撒いて、まあ……」そう言って割って入ってきた背の高い女生徒は、ケイカよりも三歳――サンジャオはさらにひとつ――年上のエウカリスだった。
彼女はケイカとサンジャオがあからさまに嫌な顔をしたのを見て、むしろ歓迎されたかのように満足げに歩を進めた。そして更に追い打ちをかけてきた。「あれ、聞こえていない? 学年課題の意味が理解できないお子様たちは、気楽でいいわねって言ってるの」
「わ、わかってますよ……ねえ、ケーカ?」
「……」ケイカは具合が悪いふりをして、先輩に答えようとしなかった。けれど視線だけは高圧的なまま相手から反らさなかった。
エウカリスは嫌味なぐらいゆっくりとこちらへ回り込んできて、校庭側を背にして立ち止まった。せっかくサンジャオが閉めてくれた窓を容赦なく開ける。気圧の変化で吸い込まれた空気が、エウカリスの美しく長い黒髪を宙に持ち上げた。高等部デザインの制服のせいもあり、細身で長身のシルエットがいっそう際立って見えた。
エウカリスはケレン味たっぷりに喋り始めた。「先輩の務めとして教えてあげるけれど、いくら最年少で色楽候補に選ばれたからって、学年課題を落としたら来年あなた達はこの教室にいないわ」
エウカリスの切れ長の目が更に狭まる。彼女は持ち上げた指をパチンと弾いた。サンジャオがその激しい音にビクリと肩を震わせた。ケイカには、エウカリスの指先から弾けるような赤い色が見えた気がした。「一度でも先生の教えからはぐれた子は、二度とここへは戻れない。天子様に色と音を届ける道は絶たれるわ」
それまで脅すような態度だったエウカリスだが、ここにきて先程までの小者を馬鹿にする口調に戻っていた。「いくら生まれ持った力があったとしても、日々をふざけて生きているようだし、色楽の道は諦めたら? 真剣に努力する子たちの邪魔になるわ。それだけ馬鹿っぽければ余裕で普通の生徒としてやっていけるでしょう」エウカリスはケイカを一瞥した。そして鼻先を手で覆いながら、不潔なものを見てしまったかのように眉をひそめる。「体だけは成長してるようだし――」
「その先を言ったら許さない!」ケイカが突然、勢いよく立ち上がって叫んだ。飛ばされた椅子が脚を軸に回転し、床に音を立てて転がった。
サンジャオは友人の突然の発言に固まってしまった。諌めようと思っても、小さな手足は言うことを聞いてくれない。サンジャオは、唯一動かすことの出来る瞳でケイカを見つめた。同級生を苦しめていたあの体の痛みは、どこへ行ってしまったのだろう。彼女にそんな様子は微塵も感じられなかった。それにしてもケイカがこんなに激しく反応するのを、サンジャオは初めて見たかもしれない。
エウカリスは動じることなく不遜な顔のままだったが、いつの間にか相手を挑発するような言葉は無くなっていた。今はむしろ目を細め、いきり立つ後輩をじっと観察している。
彼女の青い瞳には興奮するケイカの姿が映っていた。そしてそこに、わずかだが赤い陽炎の様な波模様が、かぶって見えていた。
このクラスに集められた者は全員、その心に「共感覚」を宿していた。
解りやすく言い換えると、彼女たちは世に大量に存在する『音』の中に色を見ることができる、珍しい人間だった。その力は決して一般的ではなく、全生徒の人数とこのクラスのそれを比較してみれば、数が極端に少ない事がわかる。
水滴が跳ねる音は水色、川のせせらぎは青、そして風が木の葉を揺らす音は緑……彼女たちは世に溢れる音を聞く時、小さなふたつの瞳の中で様々な色を映し出していた。
この能力を使った最たる芸術が『色楽』だった。
音楽とは音の洪水、さまざまな音色がひとつの曲を作り出す芸術だ。色楽はそれに色の概念が加わる。奏でた音が色を生み、さらにひとつの色が別の色と重なり新しい世界を生み出す――聞くという音楽の世界に、彩色という新たな要素が入り込んだのが色楽だ。色楽は音楽とは姉妹でありながら、独特で別次元の芸術性を生み出していた。
この芸術があまりにも特殊で、稀有である理由は、ただひとつ。それがほとんどの人間には『見えない』からだ。
美しい音を紡ぎ出せる女性の奏者がいたとしよう。その者は音楽の世界では高い評価を得られるだろう。けれど色楽にはなれない。なぜなら、かの者の心に共感覚が無いからだ。もしかしたら彼女は、自分が奏でた音で色を作り出せているのかもしれない。けれど残念な事に本人には描かれた世界が見えていないのだ。
色楽は共感覚の持ち主たちだけに伝えられ、その狭い世界の中で生き延びてきた。けれど廃れることも滅びることもなかった。その理由は、この芸術にはもうひとつ別の用途があるからだ。
それは聖なる供物としての側面だった。
この世には特別に強い共感覚の力を持つ者たちがいた。それが天無と呼ばれる位にある古い皇族たちのグループだ。その中で天子は、この国で最も高い頂きに立つ、象徴としての唯一無二の存在だった。
彼らを対象に行われる国の祭典として『シキ』と呼ばれる舞踊がある。その中で天子に貢がれるのが色楽であり、それを奏でるための楽隊が代々宮中に仕えていた。
この学園で将来の色楽隊の候補として選ばれた少女たちは、この極限の芸術を昇華させる為、一般の授業とはまた別の特別なクラスに在籍していた。
優れた共感覚者とはいえ、まだ幼く未熟な精神の子供たちでもある。彼女たちは色が見えていても、楽器――色楽では『うつわ』とも呼ばれる――を自在に操ることはできなかった。器は確かな音、ひいては美しい色を生み出す為の、触媒の役目を持っている。つまり、聴くものに確かな色を想起させる為には、卓越した楽器の演者である必要があるのだ。
どんなに達人の奏者でも、楽器の音を媒介しなければ、色楽が人の目に色を見せつける事など不可能だ。だから我々は日頃から必死の思いで、自らが選んだ器を手に、音と色の関連を学び続けるのだ。
だったら、これは何なのだろう。エウカリスの心が焦りに似た苛立ちに襲われる。無手のケイカの周りに見える色の渦は、あきらかにエウカリスの知識を超えた現象に思えた。
共感覚の暴走? そんな週刊誌の広告のような言葉が、エウカリスの脳裏をよぎった。
いつも自信を持つ者ほど、理解できないものには脅威や不安を覚える。エウカリスは自分がなぜこんな追い詰められた気分でいるのか、説明ができなかった。
けれど年上のこの少女は、心を立て直す術に長けていた。
まあいいわと、エウカリスは肩の力を抜いた。何も真剣に考える必要など無い。私自身にも不安定な時期があって感覚をコントロールできない事がある。相手の未知の能力などではなく、私の問題。こんなものは、己の未熟さが見せるただの錯覚のひとつに過ぎない。エウカリスはそう言い聞かせた。
「まあせいぜい頑張りなさい。そうそう、今回の課題は『恋』よね。楽師先生も意地が悪い。どうみても経験がない子供たちに、そんなテーマを出すなんて……」
エウカリスは掌を教室の天井に向け、理解できないという素振りを見せた。そして来たときと同じ遠回りをして、そのまま教室を出る扉へと向かっていった。
暴風雨が去った。サンジャオは先輩の後ろ姿を見やりながら、自分と周囲に受けた被害に気持ちが付いていかず、しばらく放心状態で立っていた。
窓から入ってくる雨まじりの風に自分の三つ編みの房が揺れて、初めて我に返った。指が、ケイカを止めようとして開いた形のままで固定されていた。サンジャオはそれを、反対の指で一本ずつゆっくりと引き戻していった。
ようやく喉に力が戻ってきて、喋ることが出来るようになった。「あ……えっと、驚いちゃった! 何だかいろいろ突然すぎてさ……ねえ、ケーカ?」
振り向いたサンジャオの目に映ったのは、青い顔で床に崩れ落ちるケイカの姿と、少女が床に膝をついた時の赤黒い衝突の色だった。
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