第3話 老人(2)

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 第3話 老人(2)

 午後の終業(おわり)を告げるチャイムが、スピーカーから鳴り響いた。  中等部の学科の授業はこれでおしまいだった。いつもならこの後、高等部の子たちが教室に移動してきて、色楽クラスに特化した授業を行うのだが、ここ数日は違った。  流石に受験のある先輩たちは、補習があればそちらを優先する。ケイカが教室の同じクラスの子を見渡してみると、ほぼ全員が帰りの支度を始めていた。  それぞれが自分の家で練習するのだろう。一階の音楽室に足を向ける生徒はおそらく、ケイカぐらいなものだった。  学年課題が発表された後の人と人の間の空気というのは、こんなにピリピリしているのか。ケイカはここ数日それを肌で感じていた。  テーマは皆おなじでも、課題は各個人に与えられるものだ。それぞれが異なる器を得意とし、あらわし方は違うものだから、練習はバラバラに行われても不思議ではない。ただ競争という訳でもない。試験を受けた結果、落ちる子は落ちるんだし、誰かが不参加になったからといって、自分が有利になるわけでもない。  だったら、もうちょっと友人関係を強調して「一緒にやろうよ」とか「私の音と色の調和を見てくれない?」なんて会話があっても良いのではと、ケイカは思う。自分の友達付き合いは下手なくせに、こういう時だけ矛盾を感じてしまうのは、生来の天の邪鬼さが作用しているに違いない。少女はそんな風に考えていた。  ケイカがもう少し大人だったら気づいたかもしれないのだが、事実はもう少し単純だった。人は大きな不安を前にすると他人にかまう余裕が無くなるのだ。  ケイカは鞄を開けると、机の上に並べていたテキストを重ねて揃え、中にしまいこんだ。フランネルの裏地のついたスクールコートと赤いマフラーを片手にかかえる。音楽室に向かう前に、サンジャオの席に寄った。少女は直前の授業のノートの数字とテキストを並べて睨めっこし、頭を抱えていた。 「ジャオ、わたし下にいるから」ケイカは友達の机を軽くコンコンして、教室を後にした。  音楽室はやはり貸し切りだった。  ケイカは荷物を置くと、ピアノの前を通り過ぎて、先に部屋の窓をわずかに開けた。以前の事があったので、扉の方を警戒するのは忘れなかった。 「晴れてるし、空気の入れ替えぐらい、大丈夫だよね」  楽器の前で慣らしの曲を一通り回した後、ケイカはちょっとだけ、いつもと異なるフレーズを弾き始めた。  それは彼女が好きな曲の小節で、いわば流行りのものだった。古典を主とする色楽の練習では絶対に題材にあがらないし、弾かせてもらえない調べだ。  気晴らしをする時はいつも、ケイカは明るくてノリの良い曲を好んで弾いていた。格式は備わっていても、いつも眠たくなる旋律や技巧的な音符ばかりを追いかけていてはつまらない。こんな気兼ねなく力を抜いて楽しめる音があるのに、楽しまない手はないでしょう?  天子様だってそう思うに違いない。失礼を承知で言わせて貰えれば、あの方だって、いつも聞いている曲だけじゃあ、欠伸のひとつもしたくなる時がきっとあるはず。根拠は薄いけれど、ケイカには彼女を飽きさせない自信があった。 「今日は調子がよさそうだね」  低い声が窓の外から聞こえてきた。もう聞き慣れたので驚きはしない。むしろケイカが待っていたお腹に優しく響く音だ。色に例えれば、大地の匂いがする暖かな土の色といった所。  ケイカは指を動かしながら、声の主に向かって答えた。「この曲は違うの。課題のじゃなくて、普通の流行りのもの。でも私が好きな曲のひとつ」 「そうだろうと思っていたよ」老人は窓の外にいるのだが、姿を見せなかった。しゃがんで、土いじりをしている最中だからだ。低い場所から声だけが聞こえてくる。「私はあまり新しいもの(・・・・・)に詳しくはないのだけれど、そいつは楽しそうに聞こえる。君の腕前のせいかもしれないけれど、感情が素直に出ている気がするね」 「でしょう」自分と曲の両方を褒められ、ケイカは嬉しくなって微笑んだ。今日は指の調子も色の出もいい。いつまでもこうして弾けていたらと思った。 「その曲を楽師とやらに、聞かせてあげることは出来ないのかい?」 「そんなの、絶っ対に無理!」ケイカは後半のアクセントを強くして断言した。「こうして弾いているのが見つかっただけでも叱られるわ」 「そうかかね」老人は残念そうだ。「君の学ぶ『シキラク』とやらはとにかく厳しいんだなあ……私はもっと、こう……何といったらいいだろう。私自身、柔らかく生きてきたせいで、ルールに縛られのが嫌いでね」 「ふふ、変わってる!」 「おかしいかね」 「だって普通は、おじいさんみたいな年配の人の方が、頑固でルールに厳しいのよ。先生みたいにね」 「まあ規律は必要だと思うよ。それは認めるが、けれどそこまで厳しくされて楽しいのかね?」 「ん……楽しいわ……でも半分ぐらい楽しくない時もある。でも厳しいのは聞かされてきて知ってたし、もともと好きなことだし」 「シキラクというのは」剪定鋏のパチンという音がした。「私にはとうてい見えないけれど、色を大切にするという話だったね」 「そう」 「前に教えてもらった。(えが)いているシキというのは、君の音が生んだ君の心そのものなんだろう? 果たして半分だけ楽しくて、良い色が出るものだろうか」 「……」 「私にしてみたら、どうせなら全て楽しい方が、良いものが生まれるんじゃないかと思ってしまうんだけれどなあ」 「言いたいことはわかるけど、そんなに上手くはいかないわ」 「駄目かね」 「駄目っていうか……決められたように弾くのが音楽で、定められた色を出すのが色楽だもん。自由に何でもやれたら、それは違うものになってしまう」 「まあ、理屈はそうなるね」 「特に天子様に献上する曲は、極端にそうでなくては駄目。少しのゆらぎも許されないの」ケイカの指が止まった。「いまの私みたいな、不安定な気持ちでいることが、一番の敵だって先生は言ってる」 「ふむ……困ったね」老人は土いじりを終え、ひょっこりと窓から顔を出した。同じ姿勢で固くなった腿や腰を、握りこぶしで叩いてほぐしていく。「楽しい曲が弾きたいけれど、それは禁じられている。だから半分だけ楽しい曲を選ばなきゃならないけれど、それがまた君を憂鬱にさせる」 「もう! 変な事を言って、おじいさんは私を困らせたいんでしょ? こっちだって悩んでいるんだから……」 「そんなことはないよ。私は君が自由にやって欲しいだけなんだ。私の花たちだって、一色だけを植えるよりも、いろんな色を組み合わせた時の方が美しく輝いて見えるものだから」 「色楽が花だったら、良いんだけどなあ」ケイカは深い意味はなく言い、外の遠くの方を見つめた。  少女が何の気なしに漏らした言葉に反応して、老人は黒い瞳でじっとケイカを見つめていた。その何か思惑のこもった視線に、ケイカは全く気づいていない。 「……私の知り合いに、相談してみる気はないかね」 「知り合い?」前置きなしに出た話に、ケイカはうまく反応出来ていなかった。 「うん。その人はね……『歌い手』なんだ」  老人がおずおずと伝えた事実を聞いても、ケイカには最初意味が理解できなかった。けれどそのフレーズはなぜか、ケイカの心の一部に引っかかっていた。鼓膜に残る振動の記憶が耳の奥でその言葉を繰り返している。知り合い……相談……歌い手……歌い手……。 「歌い手!?」ケイカは驚いて大声を出してしまった。それが恥ずべき言葉だったかのように、すぐに口をつぐむ。「な、何を言ってるの? おじいさん、正気なの?」 「ありゃ、駄目かね?」不思議そうに、残念そうに、老人は聞き返した。 「あたりまえじゃない! 色楽を()る者に『歌』だなんて、そんなこと、語るだけでも許されないわ!」  少女はきょとんとする老人を非難の目で見た。けれどこれは仕方がなかった。ケイカは老人に色楽のすべてを説明したわけでは無かったのだから。  ケイカたちが届ける色楽は曲と色だけの芸術で、そこに歌は存在しない。老楽師の言葉を借りれば「言葉など音と色を邪魔するだけの雑音」でしかないのだ。この考え方は楽師だけが唱えているのではなく、色楽の世界では絶対だった。  この世にどれだけの曲があるのかケイカは知らないし、その中には歌詞のある曲も存在するだろう。けれど色楽者の候補に選ばれた時、極端に言えば共感覚を持つ人生を背負った時から、ケイカたち少女は『歌』を捨て去っていたのだ。  ケイカの態度に老人はショックを受けたようだった。「すまなかった。そんなに怒るなんて。同じ音楽をする者同士なので、何か刺激があるかと思っただけなんだよ」 「いえ、私こそ……ごめんなさい」ケイカは相手の悲壮な顔を見て、言い過ぎを悟った。老人を傷つける気はなかったのだ。「先生の心が乗り移っちゃったみたい」 「その人はね、君の音に興味があるようなんだ。もし出来るのであれば、その君の演奏を聴かせることも許されない(・・・・・)のかい?」  断る理由を考えようとして、ケイカは黙ってしまった。私が色楽として存在しているように、歌い手が世にある事を少女は知っていた。彼ら/彼女らは、器の代わりに自身の体の一部――声を用いて音を作る。ケイカも思わず口ずさんだりする事はあるのだけれど(はしたないと叱られるが)、歌い手の声はそのレベルではないという。私たち色楽と彼らとの触れ合いがなぜ、こうまで神経質に禁じられるのか、ケイカも疑問に思ったことがあった。けれどそれは誰も問えない色楽の中の不文律だった。  ケイカはこれ以上、この花を愛する老人に、ショックを与えたくなかった。「……わかりました。少しだけなら」 「おお! ありがとう! 友人を友人に紹介することが、年寄りの私にとっては最高の道楽でね。すぐにでもその人を呼ぶとしよう。いやいや、今日はとても良い話がまとまった!」  老人は蓄えた白髭の上に、今日一番の笑みを浮かべた。彼は持ってきていた青いバケツにすべての園芸道具を詰め込むと、長靴をバタバタと鳴らして校舎の奥へと歩み去った。  誰もいなくなった校庭を見ていても仕方がない。ケイカは窓を閉めた。そこで一気に疲れがやってきた気がして、ケイカは大きく息を吐き出した。  ただの他愛もないお喋りが発展して、とんでもない事を約束してしまった。想像力のないケイカには、歌い手のイメージが湧かなかった。外国の人に合うようなものだろうか? ルールからしたら駄目なのだろうけれど、いまいちケイカには悪いことをしたという実感が無かった。 「ケーカ?」  背後で物音がして、静かになった音楽室に誰かが入ってきた。どこか探るような声を出してきたのは、サンジャオだった。 「誰かいたの?」小さな顔で部屋を隅まで見渡すが、誰もいない。サンジャオは不審そうに聞いた。「何かずっと喋ってたみたいで、大きな声もして……」 「ああ、別に大丈夫。ちょっと変な気分だったから、独り言」そういえば、サンジャオに老人のことは教えていなかった。 「何かあるんなら、私に言ってよね。悩んでるとか、何でも。だ、だって私たち友達でしょ?」 「うん……」ケイカはサンジャオの声の調子に、何か違和感を覚えた。「ジャオ?」  ケイカに問われても、サンジャオは答えなかった。その場に立って、目を合わせずにうつむいている。  ケイカは前に進み出て腰を落とし、意地を張る子供のように黙っている少女の顔を見つめた。  年がひとつ上のケイカに見つめられ、サンジャオは小刻みに震えだした。ギリギリでまだ泣いていないけれど、顔に悲しみの形が溢れ出ていた。 「さっき……教室で言われたの。ケイカと仲良くするなって……あの……あいつは変だからって」 「誰! エウカリス?」  サンジャオは黙ったまま、コクリと首を縦に振った。 「あいつ!」ケイカはカッとなった。いきり立って、サンジャオの横を通り抜けようとした所で腕をつかまれた。 「待って! エウカリスもう、帰ったから!」  サンジャオが懇願して止めたので、ケイカは踏み出した右足を引っ込めた。サンジャオの手を優しくだが振り払う。 「私はエウカリスに何も言ってないからね! こ、怖かったけれど、無視して逃げてきただけだから!」 「わかってるって。それに私、ジャオに怒ってるわけじゃないし」ケイカは不安そうに見上げてくる、背の小さなサンジャオの頭を撫でてやった。  抱えていた心配事を吐き出し、楽になったのだろう。サンジャオはケイカの掌の暖かさを感じて、子猫のように安らかな顔になった。「怒るのは分かるけれど、お願いだからエウカリスと喧嘩しないで。これからもだよ、お願い」 「……わかってるけどさ。挑発してくるのはあいつなんだぞ?」 「ケーカが怪我でもしたら私……」サンジャオは潤んだ目のまま、何かを言いたそうにケイカを見つめた。頭の上にあったケイカの右手を両手で包み込み、胸元に下ろした。それを自分の小さな胸に押し付ける。 「ジャオ?」  感情が高まったサンジャオが、いきなりケイカに抱きついてきた。不意をつかれたケイカは振り払う訳にもいかず、一旦はされるがままになった。 「なあ、ジャオ、そろそろ……」  サンジャオは目を閉じたまま、自分より背の大きなケイカの腕の中でじっと動かなかった。やがて小さく首を縦に振る。「……うん」 「ここで、練習するつもり?」 「ううん、弓を……家のと交換したくて来ただけ」  さっとケイカから離れたサンジャオは、自分の楽器の置いてある方に走っていった。すぐにお目当てのチェロの弓ケースを探しあてた。  ケイカは自由になった腕を伸ばしながら、その様子を見ていた。腕と胸の辺りにサンジャオの体温が残っていて、まだ暖かい。 「ケーカはまだ練習していくの?」サンジャオが聞いた。 「あと、少しだけ」本当は全然、練習できていなかったのだが。 「わかった、じゃあね」  床に放ってあった自分の鞄を持つと、サンジャオは部屋から出ようとする。扉の前で立ち止まり、くるりと振り返ってケイカに微笑んだ。「ケイカ。今回の学年課題だけどね、私、上手くできそうな気がしてきたんだ」  サンジャオはそれだけを告げ、音楽室の扉を閉めた。
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