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娼婦が微笑み、手を差し伸べてくる。「コートをお預かりしますよ」さあ、と彼女の手が肩に触れた。
「ありがとう。遠慮しておくよ」
首を振った紳士に女の表情が曇る。彼女は客の手がコートのポケットに入ったままであったことに気がついていた。それが左手ともなれば考えることは一つしかない。
「奥さんに内緒で来たの……?」
「まさか。だが、君に言われると心臓に悪いな」
「他の娼婦は言わないでしょうから、きっとそのせいね」
上品だが、やはり娼婦だ。客との距離の縮め方や些細な触れ方が艶めかしい。
やがて紳士は細く息をつき、ポケットの中の手を見せた。どうやら堪忍したらしい。その薬指に指輪はない。
娼婦の口が「ああ」とだけ動いた。
「悪いが預かってくれるかな」
「あの……ごめんなさい……私、失礼なことを」
自らコートを脱ごうとした紳士を娼婦が止める。つい先ほどまで「預かる」と言ったくせにおかしなことになっていた。
結局、彼女は黒服の青年に客人のコートを渡し、紳士の隣へ腰掛けた。
「美味しいお酒を用意したの。お詫びになるかしら……?」
そこで初めて紳士はグラスに視線を落としたのだ。
カクテル・グラスの中で、こっくりとした黄色の水面が揺れている。口に含むや否や紳士は手元に寄せられた酒に目を鋭くした。
柑橘の風味が効いている。レモンと合わさるのはオレンジ・キュラソーだ。寝酒――ナイトキャップにしては爽やかだ。
甘いばかりのカクテルとは一線を画す。
「……………ビトウィーン・ザ・シーツか……」
「えぇ、『あなたと夜を過ごしたい』お気に召すまま」
年を追うごとにアルコールに弱くなる。最初こそあまり感じなかったが、度数が徐々に強くなってきた。
確か、三十五度だったか。
娼婦というのは、とんでもない。
彼女は甘やかな表情で紳士を見つめていた。
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