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どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
魔が差した。ふらりとやって来た店に、つい長居をしてしまった。しかし、なぜ寄り付いてしまったのか。
呑みたくなったからか? 興味があったからか? ――違う、ただの好奇心ではない。
まだ好奇心だとも気づかずにいた。
引き寄せられたのだ。
終業後は真っ直ぐ帰宅するのが紳士の決まり事だった。そのはずだったのだが、気がつくと娼館へ足を踏み入れていた。
なぜだか急に瞼が軽くなった。皮膚もまた薄くなったように感じる。紳士は眠りこけていた。そして隣には、例の娼婦がいる。
「あ、気がつかれました?」
「……あぁ」
頭が回らない。年甲斐もなく酒に飲まれてしまったらしい。
「疲れているんですね。わりとすぐ眠られましたよ?」
カクテル・グラスには、まだ酒が残っていた。
娼婦が可笑しそうに笑う。
「そうか。眠ったのか………すまない」
紳士が掠れた声を出して額に手を当てた。頭痛が酷い。客である自分が眠ってはこの娘は何も仕事をしなかったことになる。彼は長々と謝罪の言葉を垂れた。
「わたしが眠ってしまっては………」
「お気になさらないで下さい? 私の御客様は、あなた一人ではありませんから」
娼婦が畳みかける。キリッとした語気が飲み口の爽やかな酒のように流れる。紳士は自分に用意されたカクテルを彷彿とした。
そう言われてしまっては何も言えまい。「………それもそうだな」後ろ暗く呟く。黙っておくべきだったかもしれない。紳士は口髭に手をやった。
「あの………もう、お店を」
すると、またも娼婦が声をかけた。ややあって紳士が周りを見渡すと店内は閑散としている。あの騒がしい客たちは疾うに店を出たのか。
今日の自分は、どうしようもないな。彼が自分を嘲る。苦々しい笑みを浮かべた。
「あぁ、うん。長居をしてすまなかったね……」
「いいえ、こちらこそ」
紳士に続き、娼婦が席を立つ。黒服の青年を呼びつけた彼女が言った。「御客さまのコートを」急いでねと付け足す。
「いや。それくらいは自分で――」
眠りこけた上に長居をした手前、必要以上に彼女らの手を煩わせるわけにはいかない。紳士が娼婦を手で制した。ところが、その手を重ねられる。
「いけません」
小さな両手が、もう若くはない男の手を包んでいた。
「この店を出るまでは、れっきとした御客様ですから……」
青年からコートを受け取った娼婦が背後から紳士にコートをかける。肩を合わせたもころで正面に回ってボタンを留める。
薄い金色のまつ毛が瞳に覆い被さっていた。
「本当に、ありがとうございました」
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