第三罪:三角関係

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 エーデルは約束の時間より五分早くカフェに着いていたが、彼も既に到着していた。 「マチルダ」  ベンが軽く手を挙げる。彼女は「彼の席へ」と店員に声をかけ、元恋人のもとへ向かった。 「早かったのね」 「君こそ。それに女の子を待たせるわけにはいかない」  娼婦が向かいの席に腰掛けると、甘いマスクに微笑まれた。彼女は黙ってメニューを開く。 「少しはさ、何か言ってくれたっていいだろ」 「私が何を言えるっていうの。それにもうそんな関係でもないでしょう」 「まったくだ」  今度は歯を見せて笑う。もとより人当たりの良い男だとは思っていたが……彼は、なぜ微笑を崩さないのだろう。エーデルのほうがよほど冷たい声をしていた。 「それで話は?」  まるで恋人に語りかけるような口振りだ。自分のもとから逃げ出した――それも他の男と――女に向ける態度ではない。  ベンは頬杖をつき、わずかに首をかしげてみせた。男性にしては長めのダークブラウンの髪が、はらりと流れる。目元にかかると、彼は煩わしげに掻き上げた。そこで初めて顔をしかめる。 「……ごめんなさい」  ちょうど娼婦が謝罪の言葉を口にしたのと同時だった。ベンジャミンが、とても不機嫌な顔になる。 「聞きたくないね。そんなこと………何か頼もう。僕はカプチーノにするけど君は? ミルクティー?」 「ベン」  エーデルが口を開いた。しかし次の言葉が出てこない。まず初めに言い訳をしたかったのか。それとも飲み物はいらないと? 彼女は考えたが、答えは出なかった。 「マチルダ、それは別れ話? もっとも、そういう関係だったかと聞かれると素直に頷くには曖昧な関係なんだろうけど……恋人か客か、セックスフレンドか。結構難しいところだよね」  ベンはいつもと変わらぬ優しい口振りで辛辣な言葉を使った。また、彼は公の場でセックスなどと卑猥なことを口にする人間ではなかった。……エーデルの知る限り。彼女はこんな様子の美男子を初めて見た。ベンが喉を鳴らす。 「ベン……? 何がそんなに可笑しいの?」  彼は確かに喉を鳴らすように笑ったが、その表情は可笑しくて吹き出したときのようだ。「何がだって?」ベンの口角がみるみるうちに上がっていく。 「いや。可笑しいと言うより滑稽だな……と思っただけだよ。あぁ、もちろん。僕が、ね?」  ベンが頬杖をつく手をわずかに動かして、手の向きを変える。薄い唇を固く結び、ますます神妙な顔になった。 「だって、そうだろ? 恋人だと思っていた美しい彼女はいとも簡単にどこかの金持ち紳士に取られて、しかも恋人か? と()かれれば素直に頷けるほど、はっきりとした間柄でもない。おまけに――」  彼は一息にまくし立てた。自嘲するように笑う。 「君はきっと僕のことをいい金蔓(かねづる)だと思っていただろうしね。容姿も羽振りも良いからキープ中ってやつかな……?」 「ベン……っ!」  たまらずエーデルは足掻き、弁解を試みた。しかし、「待ってね?」と制されてしまう。 「僕が言っていることがすべて正しいとは思ってない。反論だって後で聞く。だけど、その前に――君は僕とのことを清算したいんだろう……? はっきり言ってしまえば、やっぱり別れ話だ」  美男子のブルーグレーの瞳が、エーデルを真っ直ぐ見ていた。そして彼は今までで一番綺麗な微笑を浮かべてこう言った。ひとつ息を吐く。 「もし僕がその話に耳を貸さないとすると、君はどうする?」
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